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半覚斎殿ご無沙汰しております

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 2月 1日(火)23時06分27秒
返信・引用
  半覚斎とは書くのが憚られますね。基本は根本史料です。ご指摘の書物は参考文献に含んでおり当然読んでおります。しかしこれらは江戸期に書かれた二次的史料でしかありません。その中に収録されている古文書以外は信用性に乏しい内容も含まれているかもしれません。大学の教授クラスの方が書いた書籍をみると、宗広と親朝の代は結城姓で書いてあるのが多いようです。ただ人に依るようです。それほどこだわる問題でもないのかもしれませんが、まだ取り寄せ中の書籍もあるのでまた変更するかもしれません。ボタンがかぶっている箇所は解像度の違いによるのでしょうかね。私も近くの図書館で自分のサイトを見て気付きましたが。  

こんにちわ

 投稿者:半覚斎  投稿日:2005年 2月 1日(火)14時43分3秒
返信・引用
  四家合考の縫殿です。ネームを変えました^^
じっくりと読ませていただいております。

文章中のボタンがかぶっている箇所がありますね。
少し読みにくい、、。

白川氏、「会津旧事雑考」でも「白川氏」と記載されていますね。
葦名氏分限帳では「結城七郎義親」です。

常陸の結城氏と区別するために「白川」と書いたものかも、、
本姓はあくまで結城○○藤原の○○通称白川なのかも。
それが苗字ですけどね。

ところで、確か、白川氏は最後の段階で分家の小峰氏に乗っ取られたんでしたよね?

さて、「白河風土記」では「親朝以後は結城あるいは小峰と称す」とありますが、、。

白川(小峰)氏の動向については、「白河風土記」では「義親御礼(秀吉に)に出ざるにより断絶」とあり、白河に居たように書いてあります。

佐竹との闘争に関しては「戦争のことあり」のみの記載。
古戦場の条に記載とありますが、その項がみつからない(汗  と言うか、無い。

関和久館は家臣熊田氏五千石の城が記載されていて、白川氏に関しての記載はありません。

答えになってませんけど、、。

風土記をお持ちでしたら、失礼しました。
 

戦国大名白河氏について

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 2月 8日(火)19時48分13秒
返信・引用
  天正二年二月の佐竹勢の攻撃によって、白河城にあった晴綱の子七若丸は城を退去し那須に難を避けたので白河城は佐竹勢の手に落ちたと、その後小峰義親は自らの居城である関和久城で抵抗を続けたという記載のある書籍が複数あるのですが、白河城は落城していなかったという記録が残っているのでしょうか。私の手元に今ある二次的資料ではそのような記載のものしかありませんので教えて頂けないでしょうか。
 あと白河氏ですが、確かに宗広は元弘三年(1333)正月後醍醐天皇より結城惣領の地位を認められています。下総の結城氏は一貫して北条方だったので、あてこすりの意味もあってそのような勅裁が出されたのでしょう。実際には下総の結城氏は断絶したわけではないので実効性は疑わしいですが。それはたとえ下総の結城氏と白河の結城氏との力関係が一時逆転していたとしても、下総結城氏は朝祐・直朝・直光・基光と一貫して北朝方に属して各地を転戦していて、北朝方からすれば白河の結城氏に惣領の地位を認めるということは到底なかったのではないでしょうか。ただ南朝から発給された文書の宛所に結城大蔵大輔殿(親朝)などと記載があるのは、その勅裁に由来するとも思われます。南北朝対立の時代では当然のことだったのかもしれません。ただよく調べると興国二年(1341)に南朝方の人物から出された書状に白川修理権大夫殿というのがありました。これは親朝のことです。また嘉暦四年(1329)三月二十三日散位某と縫殿允某とが連署した奉書に白河上野入道殿と元弘三年(1333)十月五日に出された陸奥国宣に白河上野前司入道殿というのがありました。これは宗広のことです。特に嘉暦四年といえばまだ鎌倉時代であり、鎌倉幕府御家人の時にすでに白河氏と認識されていたことを示すものではないでしょうか。また後醍醐天皇綸旨にも白川一族等中とか白河七郎兵衛尉所といった記述があります。室町幕府が成立して幕府、鎌倉公方、稲村・笹川両公方から発給された文書をみると、宛所は白河右兵衛入道殿など白河氏宛がさらに多くなります。また自ら白川・小峰と連署して出している書状もあります。那須氏や二階堂氏が出した書状にも白河殿という宛所が使われています。もし白河氏が結城姓をあくまでも称していたいう事実があれば近隣の国人領主も礼を尽くすという意味でも「結城殿」あるいは「白河と在所名を入れた上で結城殿」としたものと考えますが、そのような書状は認められません。また石川一族のように石川蒲田とか石川小貫とかいうように結城白河というような記述もほとんど認められません。結城氏とは別な完全に独立した大名と認められていた証でしょう。その点室町幕府管領細川持之の奉書案を見ると小峰氏は白河氏と同等と見られていたようで興味深いです。戦国時代が応仁の乱以降を指すとすると、戦国大名とする限りに於いては白河氏がやはり妥当と考えます。
 

確かに

 投稿者:HAZU  投稿日:2005年 1月24日(月)06時42分56秒
返信・引用
   確かに氏朝あたりから将軍家等からの文書のあて先が「白河殿」「白川○○○」であることを確認しました。


筈衛

 
 

ご指摘ありがとうございます

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 2月 8日(火)15時59分35秒
返信・引用
  寺山城の現在住所は私が入れたものでしたが、地図を見て完全に間違いであることがわかったので訂正しました。小峰城が佐竹氏に落とされたという記載がある書籍を参考にしたのですが、私もそれ以上確証があってのことではないのでもう少し調べてみます。白河結城氏あるいは白河の結城氏というのは秋田藩士も後に結城姓に復姓しているぐらいですから心情的にはわかるのですが、外野席からみると戦国大名としては白河氏が適当かと思うし少し悩みます。実際、白河氏としている書籍が多いので私もそう記載したのですが、ご指摘を参考にもう少し検討してみます。親朝の代ぐらいの古文書などには結城姓を使用していているようですが、もしそうだとしても二階堂照行が藤原照行と記載するのと同じかなとも思えるし少し迷いますね。宛所には白河殿という記載が多く結城殿とはなっていないようですが。  

RE:戦国大名白河氏

 投稿者:HAZU  投稿日:2005年 1月23日(日)21時12分33秒
返信・引用
   白河氏を読ませていただきました。
 まず、白河結城氏は江戸時代に義親が伊達家に仕えるまで白河氏と名乗っていません。
あくまで、白河の結城氏です。宗広などは自分が結城氏の総領だと考えているようです。
次に、寺山城は現在の東白川郡棚倉町にあるお城です。
あと、白川城は佐竹氏に落とされていないのではないでしょうか。


筈衛
 

戦国大名白河氏

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 1月22日(土)19時06分55秒
返信・引用
  一応、戦国大名白河氏を追加しました。段々と畑違いの分野に進んでいるので、あまり自信はありません。取り寄せ中の書籍や精査の済んでいない書籍もありますので、後で訂正する部分も出るかと思いますがお許し下さい。何かお気づきの方がおられましたらメールか掲示板にご連絡頂ければと思います。  

HAZUさんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 1月11日(火)21時42分47秒
返信・引用
  明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。お怪我がなくて幸いでした。とは言っても車のことは残念でしょうが。お互い冬道には気をつけましょう。白河氏については気長にお待ちください。  

白河結城氏

 投稿者:HAZU  投稿日:2005年 1月11日(火)21時16分14秒
返信・引用
   白河結城氏、がんばってください。


筈衛
 

ツルツル路面

 投稿者:HAZU  投稿日:2005年 1月11日(火)21時13分18秒
返信・引用
   あけましておめでとうございます。
 縫殿之助さん、源次郎さん凍った路面にはお気をつけてください。
 私も昨日家内の実家から帰る途中の坂道のヘアピンカーブで凍った路面に足を取られ、路肩付近まで滑って止まってしまいました。
 後続の車も通れるようでしたので、全部の車が過ぎた後に発車しようとしていましたら、一台目の車は通り過ぎましたが、二台目の車も滑ってきて後ろからぶつけられてしまいました。
 その後も、その場所で何台かの車が滑ったり、スピンしていました。コワイヨ

 私はなんともなかったけれど、車は・・・・。
 家内は病院に行って見たところ、どこか打撲したようですがたいしたことはなかったようです。


筈衛
 

はい

 投稿者:縫殿之助  投稿日:2005年 1月 8日(土)23時48分44秒
返信・引用
  本年もよろしくお願いします。

色々とご助言、ご指導、感謝いたしております。

まだまだ未熟者です。

よろしくお願い申し上げます。
 

ツルツル路面

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 1月 8日(土)16時54分40秒
返信・引用
  今日は2日前に雨が降ったからかよく滑りました。帰り道で一台雪山に突こんでいました。毎日仕事で車は運転するので雪道は慣れているといえば慣れているけど嫌なものです。それと今日は今年初めて馬に乗りました。それと遂に美濃に乗りました。一周500mほどのコースを一回だけ乗りました。脚とハミを覚えるまで一苦労しそうです。でも落とされずに無事帰って来ました。きっと美濃は嫌なことされたと思っていることでしょう。話が長くなりましたが、とにかく初めて美濃に乗ったので少し興奮気味で打っています。雪のあるうちにある程度調教したいのでサイトの更新が遅れるかも。一応、南奥州の戦国大名に白河氏を、それと二階堂家臣についても追加したいと今年の目標はあるのですが。それと遅くなりましたが、縫殿之助さま今年も宜しくお願い致します。  

明けまして御目出度うございます

 投稿者:縫殿之助  投稿日:2005年 1月 1日(土)01時17分41秒
返信・引用
  昨年は色々と助言頂き感謝しております。
本年も宜しくお願いいたします。
 

相楽等躬について

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 1月 8日(土)17時03分22秒
返信・引用
  inoueさん訪問ありがとうございました。
須賀川城は寛永四年(1627)加藤嘉明が会津に入部した頃に廃されたようで、その後、須賀川は近世大名の城下町となることはなく奥州街道の一宿場町として栄えた。そのためか旧領主二階堂氏の時代を慕うものが多かったのではないでしょうか。相楽等躬については掲示板をご覧になっている方にも知らない人が多いのではないでしょうか。等躬は須賀川の俳人で通称を伊左衛門といい初め藤躬と号す。松尾芭蕉に師事し等躬と改めまた単斉とも号した。元禄二年(1689)四月二十二日に松尾芭蕉が奥羽行脚に出た際には、等躬の所に一週間ほど滞在したようで、「風流のはじめ奥の田植歌」「世の人の見つけぬ花や軒の栗」の二句を詠み須賀川を発ったと「岩瀬郡誌」に出ている。須賀川近辺の人の中には等躬に俳諧を学ぶものも多く、そのためこの地から著名な俳人が多く輩出したという。私も近世の須賀川についてはあまり知識がありませんのでこんなところしかわかりません。それと下のURLはhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/が正しいようです。
 

奥の細道の須賀川

 投稿者:inoue  投稿日:2004年12月29日(水)23時05分59秒
返信・引用
  こんにちは。貴二階堂興亡記拝見、たいへん参考になりました。芭蕉の奥の細道では「須賀川」が重要な位置を占めていますが、芭蕉がこの須賀川城の顛末のことをいいたかったということが知られていないと思います。あさか山なども同じで、このあたり伊達政宗の関わった戦の故地だったので作品にと取り入れたと考えられます。政宗の中央と手を組んだ奥州の強引な制圧ということへの攻撃の一環として「藤葉栄衰記」があり、等窮らがこれに絡んでいるのかもしれないと感じました。

http://www5f.biglobe/ne/jp/~inou/

 

小手森城の鳥瞰図

 投稿者:縫殿之助  投稿日:2004年12月26日(日)23時07分6秒
返信・引用
  描いてみました。

城館跡の写真は、どれもただの山(笑

で、「福島県の中世城館跡」の編者の「福島県教育委員会」へ、略即図を使用させて下さいとメールしたんですが、返事が無い。

それではと、描いてみたんですが、よろしかったら御覧になって感想などお聞かせ頂ければとても嬉しいです。
 

返信

 投稿者:縫殿之助  投稿日:2004年12月21日(火)20時09分9秒
返信・引用
  さっそくに有難うございました。こちらもリンクいたしました。
リンクは来訪者の方にとっても親切なシステムですね。

URLではご迷惑をおかけいたしました。
私のPCはマックOSXなんですが、IEだと「〜」(チルダ)を認識出来ないらしく、モジラでコピペするとうまく行く場合が多く、そうしたのですが、お手数をおかけしました。

さて、こちらで勉強をさせて頂きたいと思っております。
末永いお付き合いをお願いいたします。
 

縫殿之助さんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年12月21日(火)17時28分30秒
返信・引用
  リンクさせて頂きましたのでご確認下さい。今後とも宜しくお願い致します。早々縫殿之助さんのサイトを訪れてみましたが内容を興味深く拝見させて頂きました。全部はまだ見ていないので、またちょくちょく寄らせて頂きたいと思います。それと下に記載のURLですが〜が日本語入力がオンのまま入力したのか、そのままでは入りませんでした。  

はじめまして

 投稿者:縫殿之助  投稿日:2004年12月21日(火)08時52分47秒
返信・引用
  ここへは「芦名氏」の検索でやって来ました。

私は、今年の9月から「会津四家合考」の現代語訳のページを始めた者です。
附録として「芦名家分限帳」も掲載しています。

出来ましたら相互のリンクをお願いしたいのですが、宜しくお願いします。

http://www.nona.dti.ne.jp/〜call-you/

 

現地説明会の資料

 投稿者:HAZU  投稿日:2004年12月16日(木)18時58分2秒
返信・引用
   ついに白河館のサイトに向羽黒山城と栄町遺跡の現地説明会の資料が載りました。
 あ〜、行きたかったな。向羽黒山城。
 で、栄町遺跡にいったYさんに現地説明会の資料でもって補足説明してほしいな。

筈衛
 

福島県文化財センター白河館

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年12月 3日(金)22時11分40秒
返信・引用
  福島県文化財センター白河館という施設があることを初めて知りました。福島県立図書館よりアクセスが多いので驚きです。面白そうなところを教えて頂きました。一度では回りきれないので後でじっくり拝見しようと考えています。何時もありがとうございます。今後も宜しくお願い致します。向羽黒山城とは雪村が障壁画を揮毫したという城ですね。私も近ければ是非行きたいです。  

寺池二階堂氏

 投稿者:HAZU  投稿日:2004年12月 3日(金)21時06分53秒
返信・引用
   浅部村の二階堂氏については、そうなのかもしれませんが、断定はできません。
 私のはある辞書にあった情報です。播磨屋さんのは葛西氏の家臣団について載っている辞書がもとになっていると思います。
 また、『日本名字家系大辞典』(森岡浩編)によると栗原郡沢辺に住んでいた二階堂氏は沢辺二階堂氏といっていたようです。

 ※ 『中世奥羽の世界』(小林清治、大石直正編)による二階堂氏が地頭をした
   と思われる郡、庄、保
    岩瀬庄、信夫庄、奥玉保(ここまで、陸奥国)、成生庄(出羽国)


筈衛
 

あっ

 投稿者:HAZU  投稿日:2004年12月 3日(金)20時31分19秒
返信・引用
   向が取れてしまった(^_^;)

 会津本郷町の向羽黒山城跡です。あ〜、行きたいな^^;


筈衛
 

栄町遺跡

 投稿者:HAZU  投稿日:2004年12月 3日(金)20時28分22秒
返信・引用
   こんにちは
 栄町遺跡ですか、そういえば、福島県文化財センター白河館の「県内現地説明会・講演会等」に栄町遺跡の現地説明会の情報が載っていました。
 参考:福島県文化財センター白河館:http://www.mahoron.fks.ed.jp/
 たぶん、今までと同じように終了後、資料の提示があるんじゃないかと思います。

 久しぶりに覗いて、12月5日は羽黒山城の現地説明会か、こちらも行きたいな〜(^^ゞ

 用があって、ちょっと、いけそうもないけど・・・(;O;)


筈衛
 

Yさんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年12月 3日(金)12時33分34秒
返信・引用
  はじめまして、ご訪問ありがとうございます。参考になるか分かりませんが、また訪れてください。栄町の旧郡役所跡について何か分かりましたら、その内容もお知らせ願えればと思います。古峯神社の近くでしょうかね。
 

はじめまして

 投稿者:  投稿日:2004年12月 3日(金)07時41分54秒
返信・引用
  始めまして、福島県いわき市に住むYと申します。
お城めぐりが趣味で、近々須賀川二階堂氏の居城跡を訪問しようと思い、
参考サイトを探していて、こちらにたどり着きました。
二階堂氏を専門に扱ったサイトさんは中々少ないように思えますので、とても重宝しております。
最近、須賀川駅の近く栄町というところで、旧郡役所の跡が発掘され、明日はそれの現地説明会に行ってみようかと思っております。
その途中で須賀川氏の城郭を何件か回ってみますね。

私も自HPで岩城氏の特集をしてみたのですが、中々物にならず、まとまりに欠けた内容になってしまいました。
よろしければ、こちらを参考にさせてくださいませ。
では長文失礼しました。
 

二階堂家臣について

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月27日(土)16時55分5秒
返信・引用
  確かに武富様の同僚中村様が言われるように二階堂家臣には中村氏がいます。サイトの家臣団辞典では「藤葉栄衰記」「奥羽永慶軍記」「岩瀬郡誌」「白河古事考」「白方大明神社記」に記載されている名前を乗せていますが、その中にも中村氏は入っています。やっと名字だけ追加した状態ですが、各氏ごとの内容についても分かるところは追加していきたいと考えています。それと武家の系図は大なり小なりそういうところがあります、きっと後世になってから作ったからでしょう。けして武富家の系図だけではありません。戦いにも参加しないよほど暇な先祖がいれば別でしょうがーーー笑い。大体武士だからといって全ての人が漢字が書けたとは限りません。かといって「かな」で書いた系図は見たことがありませんがね。それと大抵の家では他人に系図を見せてはくれません。これも武富家だけのことではありません。  

ご指摘、ありがとうございました。

 投稿者:武富  投稿日:2004年11月26日(金)21時39分45秒
返信・引用
  源次郎さんのご指摘のとおり、系図上の坂上田村麻呂は、うさんくさいですね。
ただ、有名人につなげただけの可能性が大きいと思います。

さて、話は変わりますが、私の同僚に“中村さん”という方がいるのですが、
彼の親の故郷は福島県で、先祖が、二階堂氏の家臣だったとの事です。
先日、こちらのHPを教えてあげたら、すごく感激していました。

http://jns.ixla.jp/users/teakeyari15koku540/

 

武富様へ

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月25日(木)08時06分7秒
返信・引用
  訪問していただきありがとうございました。
電話帳を見ると現在も須賀川市には二階堂さんがおられますね。数はそう多くはありませんが、大桑原(おおかんばら)に3戸、古舘に3戸、その他にもありますね。戦国大名二階堂氏の直系子孫ではないでしょうが、一族である可能性は高いのではないでしょうか。
 

HAZU様へ

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月25日(木)07時46分23秒
返信・引用
  早速のお答えありがとうございます。さすが家系については何でも知っていますね。
浅辺村(浅部村)の二階堂氏とは、播磨屋さんのサイトで出てくる寺池二階堂氏のことと理解して宜しいのですよね。
 

はじめまして。

 投稿者:武富  投稿日:2004年11月24日(水)20時40分52秒
返信・引用
  はじめまして。神奈川県在住の武富と申します。
戦国大名の二階堂氏については、名前だけは存じていたのですが、先日、検索していたら、偶然、こちらを発見いたしました。
実は、勤め先に二階堂さんという方がいまして、父親の故郷が、須賀川と言っていた記憶があります。
もしかすると、戦国大名二階堂氏にゆかりがあるのかも知れませんね。

ちなみに、私も、一族のHPを主宰しております。のぞいて見て下さい。

http://jns.ixla.jp/users/teakeyari15koku540/

 

宮城登米郡の二階堂様へ

 投稿者:HAZU  投稿日:2004年11月24日(水)19時51分6秒
返信・引用
   『仙台人名大辞書』によりますと、宮城登米郡には浅辺村(浅水村)に住んで郡の大肝入になった二階堂三郎左衛門がいます。
 この家系は元和から寛文年間に三郎左衛門、延宝年間に三郎右衛門(子)、元禄年間に三郎兵衛(子)、享保年間に権九郎、元文年間に孫左衛門、安永年間に正蔵(子)と名望家として6代続いたといわれています。
 また、年代は特定できませんが、登米郡浅部村高橋城主に二階堂平内という武将がいたようです。
 他に明治時代に石越村南郷の人という二階堂泉三郎がおり、村長等の要職を経験しています。
 地元の人ならば、当時の地名と現在の地名の関係が私などよりもよくわかると思いますので、確認しないで書きます。


筈衛
 

宮城登米郡の二階堂様へ

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月24日(水)17時54分35秒
返信・引用
  投稿ありがとうございました。宮城県の栗原郡・登米郡にも二階堂氏が所領を持っていたことが書籍に出ていたので知っておりますが、宮城県史や宮城県内の市町村史で二階堂氏について調べたことすらありませんので詳しくは分かりません。宮城県内の二階堂氏についてはまだ手を付けていないというのが実状です。家系についてはHAZUさんやKUBOさんが得意分野なので、もし訪問される機会があれば何か書き込みをして頂けるかもしれません。また訪問してみてください。  

はじめまして

 投稿者:宮城登米郡の二階堂  投稿日:2004年11月23日(火)21時56分11秒
返信・引用
  自分の名前で検索してみたら、行き当たりました。ルーツを探るって面白いですね。  

源次郎より

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月20日(土)17時24分27秒
返信・引用
  二階堂家臣団に家臣団辞典を追加しました。個々の家臣についての内容は順次記載していこうと考えています。また岩瀬御台についても追加しました。  

nanaca03さんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月20日(土)11時01分20秒
返信・引用
  「松明あかし」をテーマにされた作品を制作するために須賀川市ばかりか、わざわざ秋田県横手市、角館町までロケに行かれたということで、あなたはただものではないと感じます。映像を撮るという仕事で、このような綿密な下調べが行われているということに私は驚きました。きっと良い作品になることでしょうね。そして多くの人に「松明あかし」という火祭りが知られることを期待したいです。  

ハイビジョン作品制作中

 投稿者:nanaca03  投稿日:2004年11月18日(木)08時25分58秒
返信・引用
  撮影が終わってから、このホームページに出会いました。ちょっと残念。
11月6日から13日まで、「須賀川松明あかし」をテーマにしたハイビジョン作品を作るため、須賀川ロケに行って来ました。最終日は、ハイビジョンカメラ五台編成という久々の大ロケでした。
これから編集作業に入り、完成は一月中旬の予定です。
詳しくは、下記に記した私のホームページの〈Coming Soon〉をご覧ください。

http://www.geocities.jp/nanaca03/

 

さくらさん>

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月15日(月)21時00分38秒
返信・引用
  本当に無理を言ってすみませんでした。新聞の件はこれ以上ご迷惑をお掛けできませんので、ご厚意だけ有り難く受け取りたいと思います。


源次郎
 

こんばんは

 投稿者:さくら  投稿日:2004年11月14日(日)22時28分29秒
返信・引用
  源次郎さん>
 松明あかしには、やはり時間もなく車もなく(壊れた…)行かれませんでした。
 早速の役立たず、スミマセン…。

 役に立つとは思えませんが、福島民友新聞掲載の特集記事とかお送りしますか?
 新聞に書いてあることなどはほとんどご存じのことばかりでしょうが。
 ここのところ忙しくて微に細に読んでいたわけじゃないですが、探せば地元ならではってな記事もあるかもしれないし…。
 いかがですか?

KUBOさん>
 こちらこそご無沙汰してすみません。
 なかなか北海道に行くぞ計画が現実化しないもので…(世間が許してくれない…)。
 その節は何かしらお役に立てましたでしょうかね?
 多少はパワーアップしました、またの会津訪問をお待ちしてます♪

さくらでした。
 
 

源次郎より

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月17日(水)22時20分12秒
返信・引用
  大里城籠城戦と須賀川城籠城戦を追加しました。  

リンクしました

 投稿者:KUBO  投稿日:2004年11月13日(土)00時32分46秒
返信・引用
  >源次郎さん
 先日はうちのサイトにおいでいただきありがとうございました。遅くなりましたが、
先日当方からもリンクをはりましたのでご確認下さい。今後ともよろしくお願いしま
す。
 と、リンクのご報告に来たら、筈衛さんどころかさくらさんまでいらっしゃる(^^;)

>さくらさん
 ご無沙汰しております。そちらにおじゃましたのはもう3年ぐらい前でしたか。そ
の節はお世話になりました。また、会津に行きたいですねえ〜(^^)

http://www.asahi-net.or.jp/~bc7t-kbt/

 

源次郎より

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月11日(木)22時01分8秒
返信・引用
  マニュアルを片手にサイトのあっちこっちを手直ししているので更新履歴なるものを掲載できるレベルではなく。訪問された皆様にはご迷惑をお掛けしていると思いますが、この場を借りてお詫び致します。近日では関係史跡で須賀川城絵図を追加し、参考文献の最後に僅かではありますが文献の紹介文を追加しました。  

松明あかしの件

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月11日(木)20時03分12秒
返信・引用
  さくら様、HAZU様ご返事ありがとうございました。無理を言ってかえってすみませんでした。  

安達の二階堂様へ

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年12月 4日(土)19時55分52秒
返信・引用
  信夫郡の鳥和田村にも二階堂氏の所領がありました。仁治元年(1240)十月幕府評定衆の一人二階堂行阿(基行)は子息行氏にその所領を譲ったことが知られております。伊達家臣の大立目氏も二階堂氏を称しています。私の考えとしては大立目氏は伊達氏が伊達郡より信夫郡に進出した際、信夫郡の二階堂氏族が家臣に組み込まれ、伊達郡内の大立目村を所領に充がわれたことにより大立目氏を称したのではと推測しております。安達郡は
信夫郡の隣なので、もしかすると信夫郡の二階堂氏の系統かもしれませんね。あとで「須賀川市史」を見て二本松市油井字梨木と二本松市郭内に須賀川二階堂氏の系統で須賀川落城後この地に来たという二階堂家のあることを忘れていたことに気づきました。郭内の二階堂家に系図が残されているとのことです。家紋は右三ツ巴であるとのことです。あと二本松市渋川にも二階堂家があり、こちらも須賀川徳善院の後裔ということです。家紋は丸なし左三ツ巴で代々観音山徳善院という修験の家で、系図も残っているとあります。
 

松明あかしですか

 投稿者:HAZU  投稿日:2004年11月11日(木)03時27分33秒
返信・引用
   ちょっと、その日は山形出張が入っておりましていけません。

一度は行きたいと思うんですけどね(^^ゞ


筈衛
 

さくらです。

 投稿者:さくら  投稿日:2004年11月11日(木)00時42分58秒
返信・引用
  初めて書き込みさせて頂きます、「さくらとおしろ」のさくらです。
まずはリンクの件、誠にありがとうございました。
色々と参考にさせていただきますね。

早速ですが、「松明あかし」は残念ながら行かれません。
土日とも仕事ですもので…。
一度も見たことがないので、是非見てみたいとは思っているんですが…。
申し訳ございません。

ご紹介頂いた書籍、源次郎さんの著書は、早速読んでみたいと思います。
最寄りの図書館を通じて借りることが出来るんですね〜、知りませんでした。
それではまず岩瀬郡攻めの前に、読ませていただきたいと思います。

ではまた、今後ともよろしくお願い致します。
さくらでした。
 

はじめまして。

 投稿者:安達の二階堂  投稿日:2004年11月10日(水)20時08分12秒
返信・引用
  はじめまして。自分の名前で検索したところ、こちらを発見しまして
興味深く拝見させていただいております。
まだ、見始めたばかりなので今後熟読させていただきます。
 

松明あかし

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月10日(水)13時09分4秒
返信・引用
  さくら様にもメールでお願いしたのですが、どなたか今週土曜日開催される「松明あかし」のデジタル画像を送って頂けないでしょうかね。  

ホーストレッキング

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月 6日(土)20時44分15秒
返信・引用
  久しぶりに馬に乗って気持ち良かった。その勢いでサイトの馬場も少し立ち上げました。
やっと十日たったけど、まだまだ工事中の所が多くこれからもがんばらなくては!
 

系図

 投稿者:源次郎  投稿日:2004年11月 5日(金)08時37分22秒
返信・引用
  確かに系図には信用のおけないないものもありますよね。あるサイトではこれも仮冒これも仮冒と書いてあるのがありますが、私はあまり意味がないのではと考えています。まあ論拠も書かれていないので参考にはしていませんが、笑い。だいたい徳川氏の系図にしても怪しいわけですから。しかし一般的に目にする家系についての書籍は、大名や旗本が提出した不確かな系図をもとに幕府がまとめた武鑑などを結局参考にして書かれているわけで、地方の武士の系図などはあまり参考にされていないと思います。やはり今も昔も中央にいないと日が当たらないということです。ただ系図は物語として読めばかなり面白い物ですよ。それと系図が残っていたら、時代が平和に推移した江戸時代の部分の系図については正確であることが多いですから、やはりその家にとっては意味がある重要な宝でしょう。新潟中越地震で倒壊した家から系図を持ち出したおばあさんが、これで先祖に顔向けができますと述べていましたが、それを見て系図が失われなくて本当に良かったと私も思いました。  

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