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佐竹氏について

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 5月25日(水)19時22分3秒
返信・引用
  おそらく須賀川では佐竹氏の史料は得られないでしょう。佐竹氏を調べるのであれば、先に記載した秋田市内の図書館・公文書館あるいは茨城県立図書館・太田市立図書館などを調べるべきでしょう。出典が「姓氏家系大辞典」からということですので、太田 亮先生がどのような史料をもとにそれを記述したのかをまず調べるべきでしょう。私は白石様が記した内容からみて太田先生はどこかの家に伝わる系図の記述を引用したように思えるのですが。県立図書館の中には問い合わせると良心的に調べてくれるところもありますよ。茨城県立図書館に問い合わせをしてみては如何ですか。  

源次郎殿へ

 投稿者:白石宗義  投稿日:2005年 5月25日(水)13時01分36秒
返信・引用
  ご無沙汰しております。連休に須賀川へ行く予定をしていましたがいけませんでした。源忠は奥州伊達太夫御退治の時、惣領佐竹彦二朗義行の代官となり、白石と號する地に、三年在城の時、御書に佐竹白石と下さるーーーと性氏家系大辞典にありますが、それ以上の情報がなかなか見つかりません。この件についての情報が須賀川方面で得られるでしょうかね、ご指導をお願いします。  

お久しぶりです

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 4月30日(土)17時17分9秒
返信・引用 編集済
  記述された内容ですが、田中豊先生は太田亮著「姓氏家系大辞典」二階堂氏の項の16美濃の二階堂氏のところにも記載されている「新撰志」を引用して行政の子朝光とその孫光宗とされていると思います。ただ先にも述べましたが、「姓氏家系大辞典」は史料として価値のある書物と、そうでない書物が単純に羅列されて書かれているもので、それはそれで家系について参考になる出典を広く調べるという意味では有用なのですが、「新撰志」という書物が史料として価値があるかどうかは、その内容を精査してみないとわかりません。

史料上からは行政の子に朝光なる人物がいたということは確認されていないのではないでしょうか。

追記>あとで調べたら、朝光は二階堂行政の子ではなく佐藤伊賀守朝光のことで行政の娘婿であったという資料がありました。ただこれも信憑性があるのかは、それを裏付ける史料があるのかどうかを調べなくてはなりません。
 

美濃の二階堂情報です。

 投稿者:助八郎  投稿日:2005年 4月30日(土)12時10分26秒
返信・引用
  何かの足しになればと思いまして久し振りに訪問致しました。元愛知県一宮市立北方中学校校長田中豊先生が地元の歴史書を読み易いように現代語に移す作業をしておられますが、その著作の中に「土岐系図並びに軍記」というものがあります。そこに建仁に二階堂山城守行政が稲葉山城を築城して息子の伊賀守朝光が在城。孫の伊賀守光宗が京都在番中に稲葉を号した、とありました。この稲葉は稲葉一徹につながっていきます。美濃の戦国氏は稲葉一徹が土岐家と斎藤家の軸に座っていくことで展開。どんな資料を読んでも必ずフィクサーになってきます。当時の権力者からは「一目置かれる」名家だったのでしょう。ではまた。  

あきんどさんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 4月28日(木)20時08分25秒
返信・引用
  トップページの右下にある「釈迦堂口」から入るとメールボックスがあります。メールアドレスを教えてください。  

教えていただけませんか

 投稿者:あきんど  投稿日:2005年 4月27日(水)17時51分24秒
返信・引用
  はじめまして
あきんどと申します。

教えて頂きたいことがあります。

家臣団辞典にあります。
柳沼氏を読みますと

ここに柳沼氏は楠木正成の後裔とあります。
更に、七郎左衛門正具の子孫とあります。

正具としますと伊勢楠氏になると思われますが
ここに記されている内容と自分の調べた伊勢楠氏の内容と相違がかなりあります。

この違いを調べたいと考えています。
出来ましたら、柳沼氏についての資料、系譜資料の参考文献を教えて頂けませんか

また
福島県南会津郡檜枝岐村に居住する橘氏の系譜の件も記述されておられますが
この分の参考文献なども教えて頂けませんでしょうか

不都合があるということでしたら
メールでも結構ですから、教えて頂けませんでしょうか

よろしくお願いします。
 

戦国大名相馬氏

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 4月23日(土)22時50分47秒
返信・引用 編集済
  一応、戦国大名相馬氏を掲上しました。思っていたより早く出来ました。ただ宇多庄合戦などが抜けているようなので後で書き加えます。  

こちらこそ宜しくお願い致します。

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 4月20日(水)20時14分5秒
返信・引用
  秋田市に行かれたら、是非秋田県立図書館と秋田県公文書館を訪れてみてください。佐竹氏に関する資料が揃っているので参考になると思います。私は行ったことがありませんが、秋田市立図書館明徳館という所もあります。明徳館とは秋田久保田藩の藩校の名前です。あと義兼が実名(名乗り)で源忠は入道号ですよね。  

ありがとうございました。

 投稿者:白石宗義  投稿日:2005年 4月20日(水)18時00分11秒
返信・引用
  投稿早々に返答いただきありがとうございました。私は栃木県佐野市作原町に住んでいます。今年は須賀川、秋田、白石市に行きたいと思っています。源次郎さん、今後ともよろしくお願いします。  

掲上予定の戦国大名

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 4月16日(土)18時23分12秒
返信・引用
  戦国大名相馬氏、畠山氏、大内氏に関する書籍が集まり出したので、そろそろ手を付けていこうかなと考えています。まず相馬氏が一番先になると思いますが、掲上はまだまだ先になります辛抱強くお待ち下さい。  

リンク完了しました。

 投稿者:しゃけ  投稿日:2005年 4月10日(日)01時27分31秒
返信・引用
  遅くなりましたが、当方でのリンクも完了しましたので、ご報告いたします。これからも宜しくお願いします。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/

 

相互リンクよろしくお願いします

 投稿者:七転大作  投稿日:2005年 4月 9日(土)20時52分18秒
返信・引用
  初訪問でしたので、あえて相互リンクの話は出さなかったのですが、是非ともよろしくお願いします。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~ashina/

 

はじめまして

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 4月 9日(土)11時42分25秒
返信・引用
  当サイトにリンク貼っていただいていたようなので、遅ればせながら相互リンクとさせていただきました。ご確認ください。芦名氏は二階堂氏と関係が深かった戦国大名なので、今後とも宜しくお付き合いお願い致します。  

はじめまして!!

 投稿者:七転大作  投稿日:2005年 4月 8日(金)18時55分3秒
返信・引用
  みなさん、初めまして。
私は会津の葦名氏のホームページを運営している七転大作という者です。
よろしくお願いします。

私、高校時代は須賀川の高校に通っており、須賀川の友人から二階堂氏の話は良く聞いていました。
残念ながら、松明あかしはまだニュースでしか観た事がありませんが、時間に余裕があったら今年こそは見に行きたいと思っています。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~ashina/

 

こんばんは!

 投稿者:しゃけ  投稿日:2005年 4月 7日(木)23時21分24秒
返信・引用
  リンクの件、快くご承諾をいただき、ありがとうございました。私の次回の更新時にリンクをさせていただきたいと思います。これからもどうぞ宜しくお願いします。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/

 

相互リンクの件

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 4月 6日(水)20時24分21秒
返信・引用
  相互リンクの件、了解しました。早々リンクを貼らさせて頂きましたので、ご確認ください。今後とも宜しくお願い致します。  

こんばんは!

 投稿者:しゃけ  投稿日:2005年 4月 6日(水)00時00分26秒
返信・引用
  お久しぶりです。「歴史と旅」の管理人の「しゃけ」です。ぶしつけなお願いなんですが、是非私のHPと相互リンクをさせていただきたく連絡させていただきました。お手数ですが、もしよければお時間のある時に、私のHPに一度訪問していただき、折り返し連絡をお願いできないでしょうか?宜しくお願いします。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/

 

家系はあまり得意分野ではありませんが

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 4月 3日(日)22時03分25秒
返信・引用 編集済
   今、手元にある資料を見て答えられる範囲でレスします。
「鎌倉管領所役考応仁武鑑」に記されている二階堂系図では、二階堂行村の孫行泰が加賀守であったようです。白石様は常陸国との関係で頼綱も記載されたと思いますが、行泰は頼綱の叔父にあたります。ご指摘の通り頼綱の娘は佐竹行義の室で、貞義の母です。また佐竹行義の祖父長義の継室も二階堂出羽守行義の娘であったといわれております。二階堂氏と常陸国との関係は、治承四年(1180)源頼朝が佐竹秀義を金砂山城に攻めたとき、秀義の叔父義季・昌成兄弟の裏切りによって佐竹氏が敗れ、その結果佐竹氏は常陸国奥七郡を没収され、頼朝の寵臣であった二階堂氏が久慈郡を支配下(郡守護)に置いたことに始まるようです。
 あと太田亮著の「姓氏家系大辞典」に収録されている二階堂系図には行泰の子行頼も加賀守であったように記載があります。ただ出典が明らかにされていません。この本は江戸期に書かれた信憑性の低い本や軍記物などの内容を引用していたり、それらに記載されている人名を罫線で繋げたたりしている部分もある本なので、その出典を調べてみないと、どの程度信頼に足る系図なのかは分かりません。

 ただ二階堂系図も種々伝えられていますが、私はそれらの系図の内容に矛盾のある部分が多いと考えていて、その内容を全て信用するということは出来ないと思っています。
 家系は私にとって得意とする分野ではありません。こんなところで答えになったでしょうか。
 

教えてください

 投稿者:白石宗義  投稿日:2005年 4月 3日(日)18時58分27秒
返信・引用
  はじめまして、わが白石の祖は佐竹白石源忠(義兼)で、母が二階堂加賀守の女と書かれており、佐竹貞義の母が二階堂頼綱の女です。加賀守を称した二階堂氏が実在したのか調べているところです。何かご存知でしたら教えてください。お願いします。  

長沼地方の攻防

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 3月28日(月)07時39分17秒
返信・引用
  二階堂氏と芦名氏との長沼地方をめぐる攻防について、「塔寺八幡長帳」「異本塔寺長帳」などの会津側の記録には記載があることは承知しているが、「藤葉栄衰記」など岩瀬側の記録には記載がなく、また二階堂旧臣である諸家の系図でも、文明十六年の長沼地方に於ける戦いについては記載があるが、天文年間、永禄年間の戦いについては記載がない。ただ古文書からも永禄年間にはこの地方で岩城氏の支援を受けた二階堂氏と芦名氏が戦ったという事実はあったと考えられる。記録が断片的であるので、文明十六年以外の長沼地方をめぐる戦いは当サイトでは深くは取り上げていない。  

返信

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 3月18日(金)17時39分41秒
返信・引用
  >助八郎殿へ
 ずいぶんと先祖について調べられたようですね。近江国・美濃国は実は私も興味がある地域です。私の記憶では、たしか森家は勇将を多く輩出していましたよね。織田家に関する書籍をもう一度読みたくなりました。探してみます。
>しゃけ殿へ
 さくらとおしろへは度々訪れているので、掲示板の書き込みでしゃけ殿のお名前は存じておりました。ただ掲示板の書き込み内容が、私の年代になると、ついていけない部分があるので投稿はあまりしておりませんでした。このサイトのテーマがしゃけ殿の興味をひくものかは分かりませんが、機会があればまたお越し下さい。 
 

はじめまして!

 投稿者:しゃけ  投稿日:2005年 3月18日(金)07時39分33秒
返信・引用
  さくらとおしろから飛んできました。取り合えず足跡を残しておきます。私は以前仙台に住んでいたことがあり、東北地方の史跡巡りなどに時間を掛けたことがあります。残念ながら、福島県の方はあまりいかなかったので、須賀川にも結局行けずじまいでしたが…。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/

 

先祖探し

 投稿者:助八郎  投稿日:2005年 3月17日(木)23時46分53秒
返信・引用
  美濃加茂市から加茂郡川辺町を結ぶ飛騨街道沿いの集落に下麻生という飛騨材を集積する綱場がありそこには下麻生城という「井戸家」の居城がありました。常駐する侍は「林」「丹羽」「長谷川」「木下」です。山向こうに兼山村があり森武蔵守長可が統治していました。そこの下役に先祖が就いていたと口伝されていました。天保の火事で刀槍武具が消失したので詳細は不明。「井戸助八郎」だけは分かっているのです。信長公記に「井戸才助」が信長により上意討ち、「井戸右衛門尉」が森忠政により上意討ちにあっていますがこれも係累だと思います。森武蔵守長可は蘭(乱)丸成利の兄です。  

先祖探し

 投稿者:助八郎  投稿日:2005年 3月17日(木)23時36分55秒
返信・引用
  美濃加茂市から加茂郡川辺町を結ぶ飛騨街道沿いに飛騨川が流れ川沿いの集落には織田家の重臣の家人が常駐し飛騨から進入してくる敵に対する防衛をしていました。下麻生には飛騨材を集積する綱場があり代官によって管理されておりました。そこには下麻生城という「井戸家」の居城がありました。そこに常駐する侍は「林」「丹羽」「長谷川」「木下」です。山向こうに兼山村があり森武蔵守長可が統治していました。そこの下役に先祖が就いていたと口伝されていました。天保の火事で刀槍武具が消失したとの事。井戸は木下、丹羽と婚姻を繰り返していたようでそこで「井戸助八郎」に辿り着きました。信長公記に「井戸才助」が信長により上意討ち、「井戸右衛門尉」が森忠政により上意討ちにあっていますがこれも係累だと思います。森武蔵守長可は蘭(乱)丸成利の兄です。  

通称名

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 3月16日(水)13時07分11秒
返信・引用 編集済
  「源次郎」も、私の一族の惣領家が代々使用したとみられる通称名です。私はその分流の末裔ですので、かってにハンドル名にしてしまって怒られるかもしれません。
 森武蔵とは森蘭丸と関係がある人物ですか?

http://

 

ありがとうございます。

 投稿者:助八郎  投稿日:2005年 3月15日(火)21時38分31秒
返信・引用
  色々ご教授ありがとうございます。いささかびっくりといいますか、川辺町は私の本籍地でございまして神渕は加茂郡七宗町で川辺町の隣です。神渕は土岐源氏とも関係が深く信長の中濃美濃侵攻のきっかけとした地域でもあります。墨俣城の木材切り出しをこの近隣で行っていたとも考えられています。有力な侍が所領にしていた地域は昔から当時なりの軍事的理由があったのですね。助八郎も森武蔵の家人で私の先祖の通名です。  

中西さま、すみませんでした

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 3月14日(月)16時35分12秒
返信・引用 編集済
  さっそく、お名前を直しておきました。こんなに早く訪れていただけると思っていなかったので、今朝追加したまま馬に乗りに行っておりました。帰ったら報告のメール差し上げようと考えておりましたが、先を越されてしまいました。お詫びにここにもリンク入れておきました。

http://www.geocities.jp/nanaca03/

 

リンクありがとう、ただし……

 投稿者:中西直登  投稿日:2005年 3月14日(月)10時47分41秒
返信・引用
  さっそくのリンク、ありがとうございました。
ただし、小生の名前、まちがっています。正しくは「直登」です。お暇な折にでもよろしく。

「松明あかし・炎のレクイエム」完成しました。
ハイビジョンカメラ5台で撮影したので、映像でご覧いただくと迫力ありますよ。須賀川国際短編映画祭での上映日程は、5月14(土)、15(日)の2回になります。

とりあえずお知らせまで。
 

助八郎殿へ

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 3月13日(日)00時14分54秒
返信・引用 編集済
  Googleで検索したところ、二階堂行政が稲葉山城を築城したという話は、江戸時代に創作されたものではないかという郷土史家もいると出ておりました。江戸時代以前の記録にはそのことが出てこないというのがその論拠のようです。
 あと美濃国(岐阜県)と二階堂氏の関わりについては、武儀郡神渕郷は二階堂行政の所領で、加茂郡川辺町に伝わる「米田ノ庄肥田軍記」によれば、天子野(上川辺)に二階堂行政の居館があったとあります。また正元年間(1259〜1260)頃、関市周辺に二階堂行藤の所領があり、新長谷寺を再興したと出ており、関市吉田(きった)の吉田城は二階堂行藤の居館であったそうです。
 鎌倉時代の武士の所領は、一カ所にまとまった形で与えられることは少なく、小さな所領をあっちこっちに与えられるというものでした。それと女子にも相続権があって婚姻によっても所領が他家へ移動したので、今日それらの所領をすべて把握するということは甚だ困難です。また二階堂氏のように中央官僚である有力な地頭は、そのように分散した所領に地頭代あるいは代官(一族などの場合が多いか)を派遣して管理していたようです。前述の二階堂行政の居館といわれるものも、実際には二階堂行政が住んでいなかった可能性が高いです。

 江戸時代になると、俗に好事家といわれる人々が、地方の歴史についての書物を多く出しています。その中には史料としても価値があるもの、あるいはまったく信憑性の低いものまでいろいろあります。その話がどのような書物に拠るのかを調べてみると面白いかもしれませんね。

http://

 

田村氏

 投稿者:半覚斎  投稿日:2005年 3月12日(土)08時49分23秒
返信・引用
  とても興味深く読みました。新しい知識をありがとうございます。
お疲れ様でした。

お乱さんのこと。
小説を書かれるとのことで、随分と詳しくお調べのご様子です。

資料に載って来ない事は、冷静適切な想像判断をしなければいけません。
どのように書かれるのか、期待しています。
 

戦国大名田村氏

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 3月11日(金)23時05分36秒
返信・引用 編集済
  ようやく戦国大名田村氏を掲上できましたが、あとで訂正する箇所があるかもしれません。戦国大名で検索してくる方が多いので、がんばって大名家を増やしてきましたが、少し疲れました。予定した大名家の半数に達したので少しペースを落としたいと考えています。
お乱さま訪問ありがとうございます。大場三左衛門については当サイトに記述していることしかわかりません。主君を殺した者の墓がその領内にあるというのは奇異な感じがしますね。主君を殺したある者などは、その遺骸を切り刻まれて糞堀に投げ込まれたという話もありますが。
 

はじめまして

 投稿者:お乱  投稿日:2005年 3月11日(金)20時11分36秒
返信・引用
  私は今、大庭三左衛門について知りたい事があり、半覚斎さんの紹介で
こちらのサイトにやってきました。
三左衛門の名前は、一日に三度、類い稀な事をしたのが由来になってるようですが、
具体的にどんな稀な事をしたのか、もし御存知なら教えてもらえないでしょうか。

また「新編会津風土記」(巻之三十四)には、会津の門田町の飯寺に、三左衛門の
葬られている五輪塔がかつてあったと書かれています。
「村ヨリ丑ノ方五十間ニアリ」とあるのですが、これ以上詳しい所在地をもし
御存知でしたら教えて下さい。今では五輪塔の痕跡などは残ってないのでしょうか。

ちなみに私は郡山に住んでいて、松明あかしにも何度か行った事があります。
 

了解しました

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 3月 7日(月)08時40分5秒
返信・引用 編集済
  サイトの容量がかなり増えたのですね。益々がんばってください。
私も、近々戦国大名田村氏を掲上予定です。
 

URL変更のお知らせ

 投稿者:半覚斎  投稿日:2005年 3月 7日(月)00時42分47秒
返信・引用
  宜しくお願い致します。

岩城氏。アップなさいましたね♪

http://www17.ocn.ne.jp/~you/

 

ありがとうございました。

 投稿者:助八郎  投稿日:2005年 2月27日(日)12時43分43秒
返信・引用
  ありがとうございました。平安末期の人物だったとは知りませんでした。その頃には美濃に居たんですね。守護地頭でも中央官僚の行政官が地方に赴任するんですね。地理的に熱田神宮と関係があるかもしれませんね。  

二階堂行政

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 2月27日(日)10時11分27秒
返信・引用 編集済
  訪問ありがとうございます。
二階堂行政は鎌倉幕府草創期から源頼朝に仕え、元暦元年(1184)の公文所設置とともにその寄人に選ばれた。建久元年(1190)公文所が政所に改まるとその執事となった。有能な幕府官僚として著名で従五位下に叙され、山城権守、出雲守、民部允、主計允などにも任ぜられた。二階堂氏を称した経緯は当サイトに記載の通りです。母は熱田大宮司藤原季範の妹といわれている。また建仁元年(1201)二階堂行政が稲葉山城を築城したとあるが、その経緯については専門外なので分かりません。
 

教えてください。

 投稿者:助八郎  投稿日:2005年 2月27日(日)01時25分22秒
返信・引用
  岐阜城の当初の城主は二階堂行政という人物だということですが、この人についてご存知であればお教え下さい。  

戦国大名岩城氏

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 2月26日(土)21時27分31秒
返信・引用 編集済
  一応掲上しましたが、あとでもう少し加筆する予定です。参考とする資料がどこかに紛れ込んで探してるところです。ふー  

追記

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 2月21日(月)18時55分56秒
返信・引用
  東由利町字田代には江戸時代笹山村があったようです。そこから発祥した笹山氏がいた可能性もあります。平鹿町と十文字町にも笹山家がありますし、近くの笹山家に系図・伝承などが残っていれば良いのですが、あと墓地にいってどのような家紋を使用しているか確認してみるのも指標となります。何れにしてもまず居住地近くをあったてみるのが先決です。少しロマンを壊してしまったようで申し訳ありません。  

なるほど。

 投稿者:笹山登生  投稿日:2005年 2月21日(月)17時40分8秒
返信・引用
  つながっていそうで、つながっていない。
微妙なところですね。
寺は、正伝寺で、春光寺とは、近い関係にあります。
謎を謎のままにしておくか、ロマンにとどめておくか、考えてしまいますね。
これからも、よろしく。
 

ご返事ありがとうございます

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 2月21日(月)16時32分11秒
返信・引用
  笹山さまから教えていただいた家紋と土着の時期を知って実は少し驚いている訳です。須田家の家臣であった笹山家は秋田市に居住していると「須賀川市史」に書いてあります。須田盛品が横手城代から家老となり久保田(秋田市)に移ったのが寛文十二年(1672)ですが、このとき須田家の家臣も久保田に移ったようです。そのとき久保田に移らない笹山氏の一族がいたのかと私は思ったのですが、返事をいただいて少し疑問が残りました。横手に入った須賀川衆は天仙寺あるいは春光寺を菩提寺としている家が多いようですが、笹山登生さんの家の菩提寺もそうでしょうか。また笹山家には須賀川衆であったというような伝承などは残されてはおりませんでしたか。現在横手市に居住されている笹山家は、当然須田美濃守盛秀に従って横手に入った笹山氏の子孫と単純に私も考えた訳ですが、もしかすると別の系統の笹山氏の可能性もあるかと返事をいただいて思いました。笹山という姓はそれほど多くないのでそう思っても当然なのですが。同じ土地に居住し同じ姓であるからといって同じ系統の家と断定できないことはよくあることなので、もう少し周辺の話を調べられたらと思いました。寛永初年(1624)須田盛久の家臣で御納戸役を勤めた笹山四郎兵衛は横手の横町に居住していたようです。横町は現在の住所名にないようですが町名が改まっているのでしょうか。その他の須田家の家臣は上根岸(根岸町)と蛇ノ崎(蛇ノ崎町)に居住した者が多いようです。  

早速のレスありがとうございました。

 投稿者:笹山登生  投稿日:2005年 2月21日(月)11時37分34秒
返信・引用
  源次郎さん。
早速のレス、ありがとうございました。
横手市に約20軒ほどある笹山のほとんどが、私どもの大屋新町というところに居住しています。
家紋は、残念ながら「丸に蔦」でなく、「雪輪に橘」(URL参照)です。
私の家の過去帳では、初代の没年が、元禄16年(1703年)となっていますので、1600年代後半に当地に土着したものと推察されます。

http://www.interq.or.jp/power/manabe/kamon/tatiban3.gif

 

笹山さんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 2月19日(土)21時15分35秒
返信・引用
  訪問ありがとうございました。笹山氏は須田七騎の一家です私の先祖もお世話になったかもしれませんね。横手市には笹山家が20軒ほどあるようですが、笹山登生さんの家で使用している家紋はやはり丸に蔦でしょうか。もし違う家紋を使用しているのであれば差し支えなければ教えて頂きたいのですがどうでしょうか。あと横手市立図書館にも私が自費出版した本が寄贈してあるので閲覧できると思います。機会があれば読んでみてください。  

おかげさまで、先祖のルーツがよくわかりました。

 投稿者:笹山登生  投稿日:2005年 2月18日(金)21時36分20秒
返信・引用
  秋田県横手市の笹山と申します。
ひょんなことから、このサイトの存在を知りました。
秋田では、あまりわからなかった私どもの先祖のルーツの軌跡が、このサイトで手に取るようにわかったのには、感激でした。
一度、じっくり、須賀川の方にお邪魔してみたいと思っています。
 

はい

 投稿者:半覚斎  投稿日:2005年 2月 5日(土)22時52分23秒
返信・引用
  了解で〜す。

楽しみに岩城氏と田村氏のアップを待っています♪♪

とっても参考になりますし、育ててもらっている思いです。有難うございます。
 

半覚斎殿へ

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 2月 5日(土)16時07分19秒
返信・引用
  戦国大名岩城氏と田村氏を上掲しようと考えていて。いまそれについての文献を取り寄せたり、それを読んだりまとめたりしていて、そちらの方が忙しいので「政宗記」をもう一度調べる暇がありません。暇が出来たら「会津四家合考」と「政宗記」をまた読み比べて見ますね。それにしても岩城氏と田村氏は途中で系統が替わっているようでなかなか難しいです。  

失礼しました

 投稿者:半覚斎  投稿日:2005年 2月 4日(金)23時14分2秒
返信・引用
  人取り橋の伊達側のヒーローは茂庭左月でした。  

はい

 投稿者:半覚斎  投稿日:2005年 2月 2日(水)00時50分45秒
返信・引用
  かなり意識していると思います。

それをベースに自分なりの考察を書いているかと。

否定しきれない部分が酷似するのも当然ですね。

しかし、茂庭月斎の下りは酷すぎます。

根拠が分からない。

どっちが真実なんでしょう、、。

私は、単に合考の訳をしているだけなので、そのまま訳してますけど、、。
 

(無題)

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 2月 1日(火)23時19分15秒
返信・引用
  確かにその通りでしょう。当サイトで扱っている合戦の内容にしても圧倒的に伊達側の記録をもとにしている部分が多いです。ただ佐竹側に記録があるものに関してはそれを取り入れて、なるべくバランスを取るように記述したつもりです。「会津四家合考」の小手森城攻めの内容ですが、「政宗記」の内容と酷似しているように以前から感じていました。私は成立した年代を比べて「会津四家合考」が「政宗記」を引用したものと思っていましたが、実際はどうなのですかね。  

2 次的資料

 投稿者:半覚斎  投稿日:2005年 2月 1日(火)23時01分38秒
返信・引用
  確かに、、。

色んな場面、人物でも、伊達側と会津側ではまるで違う部分があります。

伊達側は当事者資料なんですが、自分の都合の良いようにねつ造改ざんしている可能性があるし、会津側は1世紀を経た部外者による調査聞き書きの研究書です。

旧事雑考の文書は信頼が置けますが、多くを語ってはくれません。

私事ですが、私の掲示版で、旧家の伝承が聞けないものかと願っているのですが、会津人そのものに中世への関心が薄く、とても歯がゆい思いをしています。

白虎隊とムッソリーニが残した禍根は、私たち会津人にとって大きすぎる。

 

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