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リンクのお知らせ&相互リンクのお願い

 投稿者:岩本 憲一  投稿日:2006年 2月28日(火)10時21分7秒
返信・引用
  『戦国大名二階堂氏の興亡史』 管理人 源次郎 様

はじめまして。
私は『歴史大全』というサイトを運営しています、
岩本 憲一と申します。


私のサイト『歴史大全』に、
貴サイトのリンクを貼らせていただきました。

リンク先はこちらです→ http://www.3haskc.com/chuseinihonsi2.htm

とても見やすくて楽しく拝見させていただきました。
歴史好きの方にとって魅力的なサイトだと思いました。

私のサイトは歴史の好きな方はもちろんそうでない方も
楽しんでいただけるサイトを目指しています。

私のサイトに訪れた人々が、自然と皆様のサイトへ訪問し、さらに楽
しむ。そんな流れができればいいなと思っています。

もしご迷惑でないなら、
是非!相互リンクのご検討をなさって頂けれると幸いです。

相互リンクをして頂けるようでしたら、下記のテキストでリンクを
貼って頂けますようお願いいたします。
バナーを用意していなもので・・・申し訳ありません・・・

タイトル名:歴史大全 あらゆる歴史のリンク集
URL  :http://www.3haskc.com/
紹介文  :いろいろな歴史に関するリンク集(変更可)

貴サイトの紹介文で気になる箇所等あれば遠慮なくおっしゃてください。

突然の訪問で失礼いたしましたが、最後まで読んで頂き、
本当にありがとうございました。




****************************************************
「歴史大全」 管理人 岩本 憲一(ハンドル名 ライフ)

E-Mail:iichika@3haskc.com

URL  :http://www.3haskc.com/

****************************************************

http://www.3haskc.com/

 

左幕派からの幕末史

 投稿者:鈴木  投稿日:2006年 1月21日(土)17時44分11秒
返信・引用
  こんにちわ      嬉しい御報告を致します。

私の『勝ち組が消した開国の真実・・・新撰組の誠と会津武士道の光跡』
が、八重洲ブックセンターで、
「2005年度 幕末分野 ベスト一位」
になりました。

私は無名の新人ですし学界に所属しない在野の研究者でもあるので、孤立無
援でやって来ましたが、なんとか世間様の御理解が得られたようです。

読者の皆様に感謝、感謝です。

私の主張は、通説と異なり、
「開国を果たし日本近代化の礎を築いたのは徳川幕府だ。鳥羽伏見戦争は、
 徳川の方が武器も優秀だったが、薩長側は平和的に行進中の幕府側を突如
 砲撃し、無理矢理、戦争に持ち込んだ。国を二分する内戦は貴重な人命・
 財産を消耗するから、幕府は涙を呑んで自ら政権を捨て内戦を回避した」
という左幕派の立場です。

左幕派の方には、是非、御一読頂けると幸いです。

http://www.parkcity.ne.jp/~suzusou/

 

Re

 投稿者:源次郎  投稿日:2006年 1月19日(木)21時13分10秒
返信・引用
  「日本城郭大系3」には確か和田城や舘ヶ岡城も無かったと思いますよ。
「須賀川市史・中世編」には要害館の概略図みたいものが記載されています。現在の地図帳で何処に位置するかは土地勘のあるタカオさんの方が分かると思います。

http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/welcome.html

 

ありがとうございます

 投稿者:タカオ  投稿日:2006年 1月19日(木)06時44分16秒
返信・引用
  田村氏・白河氏・石川氏の家臣が二階堂氏の滅亡に乗じて…というお話ですが勉強になりました。

昨日、念願であった「日本城郭大系3」を手に入れることが出来たのでさっそく要害館をと思ったら載っていなかったので残念でした。「須賀川市史」には詳しい場所なども載っているのでしょうか。今度、図書館で調べてみようと思います。

以前、書き込みした山寺館ですが、政宗が陣を布いた陣馬山=太郎松(一本松)のあった桐陽高校(旧:須賀川女子高)の場所が山寺館の二の郭にあたるのですね。

http://www.geocities.jp/takao829/

 

要害館について

 投稿者:源次郎  投稿日:2006年 1月16日(月)18時51分7秒
返信・引用
  要害館の館主は不明のようです。要害館は釈迦堂口を守るために築かれた出城と思いますがよくは分かりません。「岩瀬郡誌」には長さ三十間の濠によって囲まれた一画とあるようです。また「須賀川市史」の図によれば正方形に近い形であったようです。
現在須賀川市に居住している方の中には二階堂家臣以外で、もとは侍であったという人も多いようです。須賀川城落城後、まもなく田村郡の戦国大名田村氏・白河郡の戦国大名白河氏・石川郡の戦国大名石川氏が豊臣秀吉の奥羽仕置によって改易され、路頭に迷ったその家臣が二階堂氏が滅亡した直後で混乱した地であった岩瀬郡に入って来て土着した者が多かったからと思われます。
ただその中には、二階堂氏の時代から須賀川に居住していたように、あるいは二階堂氏の家臣であったかのように、系図や古記録を改竄している家もあるようで、その内容を調べると明らかに矛盾する部分があると分かるものもあります。
私が記載している家臣団辞典には、そのような疑問のあるような家は極力排除するように勤めていますが、ただ家臣団を全て正確に知ることは到底不可能とも考えています。
長々と質問から外れた答えを書いてしまいましたが、どうぞお許し下さい。

http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/welcome.html

 

家臣団事典

 投稿者:タカオ  投稿日:2006年 1月16日(月)14時45分3秒
返信・引用
  拝見いたしました。私と同姓の家臣の方も更新されていましたので興味深く読ませていただきました。
以前、家紋から探ると佐竹氏の出のようです。と書き込みましたが、二階堂氏の家臣だった可能性もありそうです。もっとも私の先祖が武士だったという確証はありませんが…。

ちなみに、須賀川古屋敷にあった要害館に入っていた方の名前などご存知でしょうか?
私の父親の実家がまさに古屋敷で、近所に同姓の方が多かったそうです。
 

宜しく

 投稿者:源次郎  投稿日:2006年 1月 3日(火)16時37分12秒
返信・引用
  今年も宜しくお願い致します。
あとで、廟所見に行きます。

http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/welcome.html

 

あけまして

 投稿者:タカオ  投稿日:2006年 1月 3日(火)08時54分56秒
返信・引用
  おめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。

私は正月早々、会津若松にある蘆名家の廟所に行って参りました。
16代盛氏、17代盛興そして18代盛隆が眠っています。
HPの方へUPしましたのでどうぞご覧ください。

http://www.geocities.jp/takao829/

 

明けましておめでとうございます

 投稿者:源次郎  投稿日:2006年 1月 2日(月)13時50分34秒
返信・引用
  明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します。
私にとって昨年の後半は悪いことばかりで散々な一年でしたが、今年は良い年になるように願っています。
皆様にとっても良い年でありますようにお祈り致します。

http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/welcome.html

 

訂正です

 投稿者:中西直登  投稿日:2005年12月24日(土)07時16分39秒
返信・引用
  古いメールアドレスのまま投稿しました。
訂正してもう一度投稿します。よろしく。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~centro-oeste

 

リンクページ新設

 投稿者:中西直登  投稿日:2005年12月24日(土)07時13分48秒
返信・引用
  ご無沙汰しています。お世話になっているリンク先をまとめたページを新設しました。トップページの「リンク」から入ります。
ご確認ください。
前にお知らせした「エピソード」コーナー、増殖を続けています。ぜひご覧下さい。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~centro-oeste

 

念願の文献が

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年12月19日(月)08時57分10秒
返信・引用 編集済
  須賀川市に在住の遠い親戚の方から、「民間系譜集成」と「民間諸家系譜」のコピーを送っていただいたので、「家臣団辞典」の内容に少し訂正あるいは加筆する部分がでるかもしれません。
「民間系譜集成」は昭和49年、「民間諸家系譜」は昭和52年に出版されました。
編著者は有我一二氏です。

http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/welcome.html

 

ありがとうございました。

 投稿者:タカオ  投稿日:2005年11月26日(土)18時28分10秒
返信・引用
  リンクの確認いたしました。
遅くなりましたが、私のHPの方もリンク貼り完了しています。

国史跡の米山寺経塚群が発見された「日枝神社」は私が子供の頃の遊び場でした。
境内でカン蹴りしたり、社殿の下にもぐり込んでアリじごくを捕まえたりして遊んでましたよ。
お城を見るようになってから知ったのですが、その辺りは山寺館のあった場所なのですね。というか、むしろ「日枝神社」=「山寺館」なのでしょうか?詳しくはわかりません。
また、そこより少し南の、現須賀川桐陽高校のある辺りは伊達政宗が須賀川攻めの際に陣を布いた場所と聞いています。それにちなんでかその辺りの住所は陣場町といいます。
 

Reリンクの件

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年11月21日(月)09時03分34秒
返信・引用
  相互リンクとしていただけるようでありがとうございます。
今後とも宜しく。

http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/welcome.html

 

リンクの件

 投稿者:タカオ  投稿日:2005年11月20日(日)19時38分33秒
返信・引用
  リンクの件了解致しました!
私のHPからもリンクしたいと思いますのでよろしくお願いします。
バナーですがHP内のSitePolicyに置いてありますのでお使いください。
サイズが合わない場合はサイズを教えていただければ新たに作成いたします。

http://www.geocities.jp/takao829/

 

タカオさんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年11月20日(日)09時50分51秒
返信・引用
  家によっては、その出自を調べる上で家紋はあまり参考にならない場合も多いですよね。

私の祖父までは、タカオさんの居住している市にいました。
その市には今も私と同年代の遠い親戚が一人居住していて、その方も郷土史に詳しいので情報を貰ったりしました。
あと江戸時代に居住していた土地で農家として残っている一族は今は一軒だけと聞いています。
 

Re URLなど変わります。

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年11月20日(日)09時35分38秒
返信・引用
  URL更新しておきました。ご確認ください。  

URLなど変わります

 投稿者:中西直登  投稿日:2005年11月20日(日)00時27分34秒
返信・引用
  12月からプロバイダーが変わるので新しいものをお知らせします。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~centro-oeste
mailto  centro-oeste@khc.biglobe.ne.jp
現在のトップページにも記載してあります。リンクの処置などよろしくお願いします。新設した[EPISODE]コーナーもぜひご覧下さい。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~centro-oeste

 

こんばんは

 投稿者:タカオ  投稿日:2005年11月19日(土)23時52分22秒
返信・引用
  私は産まれも育ちも福島県の空港のある市で現在もそこにしがみ付いています。
子供の頃や若かった頃はよく松明あかしに行っていましたよ。

HP内の「二階堂家臣団辞典」の中に私の苗字もありました。
しかし家紋から探ると、どうも佐竹氏の出のようなので二階堂氏とは無関係かと思います。
 

アクセス1万件おめでとう

 投稿者:智博パパ  投稿日:2005年11月19日(土)17時39分2秒
返信・引用
  久しぶりに見たら、アクセス1万件とはすごいですね。おめでとうございます。
体に気をつけて頑張って下さい。   弟より。
 

タカオさんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年11月18日(金)18時14分39秒
返信・引用
  わざわざ情報ありがとうございました。火祭りなので風が強いと関係者は大変なのでしょうね。タカオさんは福島県にお住まいなのですか。  

松明あかし

 投稿者:タカオ  投稿日:2005年11月17日(木)20時48分21秒
返信・引用
  こんばんは。
私は行かなかったのですが、妹が行って来ました。
松明が倒れそうなくらい風が強くて寒かったみたいですが、
燃え盛る松明の近くは火の粉が飛んできて熱かったそうです。

会社の先輩も「松明太鼓」を見たくて行ってきたそうです。
「松明太鼓」は竹下首相時代に市町村へ一律1億円を配布した「ふるさと創生事業」の一環として、また松明あかし400年を記念して誕生したものです。
 

今日は松明あかし

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年11月12日(土)08時14分10秒
返信・引用
  今夜、松明あかしがあると思いますが、福島の天気はどうなのかな。
近くで暇がある人は出かけてみてください。
 

こちらこそ

 投稿者:タカオ  投稿日:2005年11月 5日(土)00時28分48秒
返信・引用
  私のHPへご訪問いただいていたのですね。
また、二階堂氏の墓の件の回答もあわせて、
ありがとうございました。

今月の12日は「松明あかし」が行われます。
二階堂氏ファンの方ぜひ一度お越しになってみてください。

http://www.geocities.jp/takao829/

 

Reはじめまして

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年10月26日(水)17時38分23秒
返信・引用 編集済
  タカオさん訪問ありがとうございます。

その辺のことはわかりません。二階堂為氏の墓ではないと思いますが。
また貴サイトも興味深く拝見させていただきました。
一身上のことで返事が遅くなりすみませんでした。

今後も返事が滞りぎみとなりそうです。サイトを開設して早一年となりましたが、予想外の出来事で源次郎はパワーダウン中です。
 

はじめまして

 投稿者:タカオ  投稿日:2005年10月15日(土)22時31分36秒
返信・引用
  はじめましてタカオと申します。
「二階堂氏」を調べていて参りました。
戦国時代ではマイナーな(失礼ですが)二階堂氏をここまで調べられているというのは凄いですね。いろいろ勉強になりました。

ひとつ知りたいことがあります。二階堂盛義の死因・亡くなられた場所なのですがお分かりでしょうか?
というのは、先日、大乗院と歴代二階堂氏の墓を参ってきました。大乗院の墓のある長禄寺の方のお話では歴代二階堂氏の墓(ダビ塚というそうです)は二階堂の殿様が亡くなられた場所とのことなのです。その殿様というのは盛義を指しているのか、はたまた為氏など他の方なのか?ご存知でしょうか?

尚、大乗院と歴代二階堂氏の墓を私のHP上で公開しています。お城や武将などの墓所、白鳥、航空機などの写真を公開しております。二階堂関連では人取橋合戦古戦場にある鬼庭良直の墓、二本松市の畠山家墓所なども最近UPしました。ぜひご覧下さい。

http://www.geocities.jp/takao829/

 

報告します(2)

 投稿者:白石宗義  投稿日:2005年10月 7日(金)20時08分5秒
返信・引用
  源次郎さん、お久しぶりです。先日、下総国古河藩(茨城県古河市)に行ってきました。
1622〜1633年の間、古河城主であった永井直勝(従五位下、右近太夫)という人物のことを調べてきました。徳川家康の重臣だったらしいです。直勝ー尚政ー尚征・・・と宗家が続きますが、尚征の弟、尚庸(二男)が伊賀守、とあり、その子、直敬、その子、尚平とあり、代々、伊賀守と称していました。我が家の家系図にある白石忠隆の子、某(黒田小右衛門)、永井右近太夫殿仕とあるのは、古河城主、永井直勝に仕えたものと思われます。小右衛門の兄弟には、吉忠(源右衛門)、忠正(庄左衛門)、某(炊之助)、女子、が載っています。忠正が家督を継いだように載っています。炊之助のことは、我が家の家譜に載っていまして、「小田原北条氏家臣、後徳川氏家臣、関ヶ原合戦において戦功あり、寛永十一年二月二日卒(七十二才)法名円常院法安仏、館林法高寺に葬る。(法高寺過去帳にも記されてある。」当時、館林城には、榊原氏が城主として居り、家系図には、榊原家臣と書かれています。館林と古河とは隣接しており、信憑性があると思います。家督を継いだ白石忠正、その子、将頼(惣兵衛)−包廣(小平治)−忠廣(彦四郎)、皆、永井伊賀守家臣となっております。まるちゃんの永井さんは、上記の関連の永井氏のところに婿に入ったか、帰農して永井姓を賜ったか、でしょうかね。源次郎さんはどのように推測しますか。
古河歴史博物館の近くに、作家、永井路子さんが少女時代を過ごした旧家がありまして、無料で見学できるんです。そこを管理していらっしゃる、昔のきれいなお譲さんに「永井路子さんは、古河城主だった永井氏と関係があるのでしょうか」とたずねたら、「いいえ、関係はありません」と答えられました。そして、路子さんの生い立ちについて、語ってくれました。
 

葱さんへ、その通りかも

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年10月 1日(土)09時40分16秒
返信・引用 編集済
  葱さん訪問ありがとうございます。

私が記述したのは一般論ですから、ご指摘の通りかと思います。
 

はじめまして

 投稿者:  投稿日:2005年 9月30日(金)22時08分15秒
返信・引用
   はじめまして
 いろいろ丹念に調べてまとめ上げられ、すごいなあと思っております。
 突然ですが、今回はひとつ指摘がありまして書き込みました。それは「江戸時代のお墓に名字が刻まれているということでしたら、先祖は宇和島藩士であったか、藩から特別に名字を許された家であったのかどちらかでしょうね。」についてですが、私が実際に見たことのある江戸時代のお墓で、前述の場合でなくとも苗字が刻まれているものがあります。今回の場合はまったく地域の違う場所のものですので、お寺の方が言うとおりだと思いますが、一概に言えないということをお知らせしたいと思いました。水を差すようで申し訳ありません。

 遅ればせながらアクセス一万件達成おめでとうござます。
 

Re

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 9月29日(木)08時27分18秒
返信・引用 編集済
  やはり現地にいって調べるのがベストですよね。江戸時代のお墓に名字が刻まれているということでしたら、先祖は宇和島藩士であったか、藩から特別に名字を許された家であったのかどちらかでしょうね。明治時代以降であれば、それ以外の家でも名字は入っていると思います。明治以前の菩提寺ですが、お墓はなくなっていても、火災などで焼失していなければ過去帳はあると思います。あとはそれを辿るということです。もし藩士あるいは庄屋などを勤めた家の場合、藩の記録に載っているかもしれませんので、その辺の資料を探してみるとかも考えられます。  

ありがとうございます

 投稿者:アンパンチ  投稿日:2005年 9月28日(水)21時54分28秒
返信・引用
  先ほど、お寺から連絡がありました。
私の祖父がお世話になったお寺は、明治以降からということでした。
このお寺には檀家変更の書類があってわかった事なのですが、それ以前は吉田町ではなく宇和島市にあるお寺に檀家があったそうです。
理由は、吉田町でも明治以前は吉田藩の管轄ではなく宇和島藩の管轄にあった場所に家とお墓があるからだそうです。
住職さんが近々この書類を送付してくれるそうなので、そこから又考えて行動していきたいと思っていますが、問題が・・・。
明治以前に檀家のあったとされるお寺が2件あります。そこに電話してみたら「ありません」と言われてしまいました。今回調べてくださったお寺は丁寧に対応してくださったのですが、やっぱり直談判で足を運んだ方がいいのでしょうか?
愛媛で二階堂の名前は珍しいので、すぐわかりそうなのですが。
ずっと思っていたのですが、お墓の年号も愛媛にいる人に見てくれるようお願いしてみたのですが、私の記憶では○○十七年となっていたような気がします・・・
お寺の住職さんには「古い年号のお墓に名字が入っているのなら、おそらく宇和島藩でお勤めされていたのでしょう」と言われました。亡き叔父がある宗教に入ってしまい、その時にご先祖様関係のものを全て焼却してしまったようです。
縦系図、作ってみようと思います。
なんか一方的に相談してしまい、すみません。
おじゃましました。
 

まず縦系図を作成しては

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 9月28日(水)16時50分24秒
返信・引用
  取り寄せた除籍謄本を元にそのおじいちゃんからあなたのお子様までの縦系図を作成すると一族全体の構成が一目でわかるようになりますよ。そのおじいちゃん以前はやはり過去帳か墓の墓碑銘が頼りとなるでしょうが。まず、お寺にそのおじいちゃんとおばあちゃんの名前と亡くなった日を言わないとその先は探せないかもしれませんね。ただ、そこから確実に進展するかどうかはわかりません。過去帳には戒名の横に続柄が書いていると思いますが、それを一つ一つ辿っていくということですから、お寺の住職がそこまで親身になってやってくれるかどうか疑問ですよね。  

こんにちは。

 投稿者:アンパンチ  投稿日:2005年 9月28日(水)14時40分22秒
返信・引用
  久しぶりに書き込みさせて頂きます。
あと一ヶ月で開設一周年だとか・・・おめでとうございます!
これからもご活躍、楽しみにしています。

前回アドバイスいただいて、除籍謄本を取り寄せしました。
源次郎さんのおっしゃる通り、江戸生まれのご先祖様の名前がわかりました。
文政3年生まれのおばあちゃんとその旦那にあたるおじいちゃん(生年月日不明)までわかりました。
ただ、お寺からの連絡はありません。過去帳を調べるって、大変な作業なんだろうな・・と思うと申し訳なくて(^^;)
もう少し、待ってみます。
 

アクセス一万件達成

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 9月26日(月)08時25分2秒
返信・引用
   いつの間にかアクセス数が一万件を越えたようです。ちょうどあと一ヶ月すると開設より一年経つわけですが、開設当初はこんなに多くの方々からアクセスしていただけるとは思ってもいませんでした。本当にありがとうございました。

 アクセス解析でみると、初めてアクセスしてくれた方が7割、常連として訪れてくれる方が3割です。複数回アクセスしてくれている方の中には何百回という回数の方もおられ、ありがたく思っております。
 またどのようなワードで検索してこられるかというと3割が「二階堂」あるいは「二階堂氏」で、あと3割が「戦国大名」です。残り4割がその他諸々ということです。
「戦国大名」で検索される方が開設当初より多かったので、急遽「南奥州の戦国大名」というコンテンツを増やし大名数を増やしてきましたが、そのため私の書斎は参考にした資料でかなり埋め尽くされました。あと予定した大名で残っているのは伊達氏と芦名氏ですが、掲上が何時になるかは今のところ未定です。少しずつ資料を取り寄せ読もうとは思っているのですが。

 当初は須賀川二階堂氏について出版されている書籍で誤って伝えられている部分を少しでも是正していければとのおもいでサイトを開設しましたが、考えていた以上に段々とコンテンツが増えてしまいました。

 一方、アクセスしてくれた方々から新たな情報も得ることができ、私にとってもメリットが数多くありました。出来るだけ長くサイトを運営していきたいと思っていますが、今後とも宜しくお願い致します。

                                源次郎
 

訪問ありがとうございます

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 9月26日(月)07時44分29秒
返信・引用
  二階堂扇さん訪問ありがとうございます。仙台在住だけでは何とも答えようがありませんが、宮城県内の二階堂氏についても掲示板の過去ログには記載がありますので見て下さい。  

初めまして!

 投稿者:二階堂 扇  投稿日:2005年 9月26日(月)01時11分40秒
返信・引用
   何となく自分の名字で検索してみたら、こちらのサイトに行きつきました。
「二階堂」について研究している方々がいらっしゃるとは!全く存じませんで、
驚きました。私の先祖がこちらの「二階堂氏」と関連しているのか否かは分か
りませんが、とても興味深く拝見しました!ちなみに私は宮城県仙台市の出身
です。関連あるのでしょうか??
 

だいぶ進展しているようですね

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 9月20日(火)19時03分16秒
返信・引用
  丸ちゃんからは連絡がまだありませんが、ルーツ探しが進展しているようで何よりです。

系図を伝えるべき子孫が少子化によっていないという問題もこれからは多くなってくるのでしょうね。
そのように失われていく可能性のある系図を保管管理してくれる公的な機関(あるいはNPO)があればうれしいのですがね。
 

報告します(2)

 投稿者:白石宗義  投稿日:2005年 9月20日(火)16時47分43秒
返信・引用
  今日、栃木県文書館へ行ってきました。巻物になっている家系図を見てきました。その中の内容を一部のせてみました。義武(佐竹彦二郎)ー忠敦−義忠ー忠章ー忠隆ー某(はじめ白石姓、その後黒田小右衛門、永井右近太夫殿に仕え)ーその兄忠正(白石庄左衛門)−将頼(白石惣兵衛)永井伊賀守、家臣、その後、代々が永井伊賀守家臣となっています。我が家は忠章の弟からの流れのようです。どうしてこちらにこの家系図があるのかわかりませんが、たどっていくとつながりが見えてきました。忠敦と義忠の間に忠尭が入ります。忠尭は応永十一年(1394)生まれで、足利持氏から感状を受領との事です。  

エコさんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 9月14日(水)21時15分11秒
返信・引用
  インターネット上では実名は伏せておこうと思います。投稿を勝手ながら削除させていただきました。
何卒、お気を悪くされませぬようにお願い致します。
なお、お近くでは川崎市立中原図書館にも蔵書があります。
 

返信

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 9月14日(水)17時35分49秒
返信・引用 編集済
  「藤葉栄衰記」だったと思います。
内応の合図に家臣に命じて梅鉢の旗を振らせたと出ていたと思います。
軍記物の記述なので実際は梅花であったかもしれません。見間違えということも考えられるでしょうし。それと旗指物の可能性もあるかもしれません。ただ内応の合図に使ったということはそれを振れば守屋氏からの合図と誰が見ても分かるということだったと思うので家紋の旗だったのかなあ。
守屋氏について詳しく書いているものはあまりないのではないでしょうか。
 

有り難うございます

 投稿者:エコ  投稿日:2005年 9月13日(火)21時59分39秒
返信・引用
  有り難うございます。

源次郎様が見たことがないと仰るのでしたら、全くの創作か、どれかが間違っているか、
ですよね。大体、家臣になってすぐ沢山の領地を、いただけるのも、おかしいですよね?よっぽど何かすごい働きでもしていれば別でしょうけれどねー。

仕方がありませんから、しばらくここらへんはおいておき、違うところを調べてみたいと思います。

それから、前に軍記物に守屋氏の家紋が出ていると、書いていらっしゃいましたが、何という題名でしょうか?教えていただけませんでしょうか?

他に守屋氏の登場する話があるとしたら、やはり、めぼしをつけて、いろいろ読んでみる以外手が無いのでしょうか?何か索引のようなものがありますでしょうか
 

尚行について

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 9月13日(火)20時36分44秒
返信・引用
  二階堂刑部少輔尚行という名前は私が知る古記録・古文書類では見たことがありません。
文明十四年(1482)頃の須賀川城主二階堂氏の当主は二階堂山城守行詮と当サイトで扱っています。行詮が尚行と名乗った時期があったかどうかも分かりません。
刑部少輔というのは官途名で、山城守というのは受領名です。今で言えば「何々省次官とか何々県知事」とかいうような肩書きにあたる部分です。現代の名前にあたる部分は尚行や行詮であります。名乗り(実名)ともいいます。
藤原は二階堂氏が南家藤原氏の出であるので本姓を表しています。
 

二階堂刑部少輔藤原尚行

 投稿者:エコ  投稿日:2005年 9月13日(火)20時11分48秒
返信・引用
  須賀川城主 二階堂刑部少輔 藤原尚行 について 教えていただけませんか?

二階堂何と言う名前か?いつごろの人か?など調べる手がかりになる程度の簡単なことで結構です。
 

了解しました

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 9月12日(月)19時47分15秒
返信・引用
  三足橘は削除しておきました。ご報告をお待ち致します。
たぶん嫡流は普通の橘で分流が三足橘あるいは陰紋と区別して使用していたのかな。
家紋のことは詳しくありませんが、一般的には三足橘を使う家は珍しいのかもしれませんね。
 

少し待ってください

 投稿者:エコ  投稿日:2005年 9月12日(月)12時49分25秒
返信・引用
  家紋のことですが、正確なものがわからなくなってしまいました。
母の残した、家紋の刺繍だけを見て陰紋と思い込んでしまいました。
確か着物にも、紋がついていたと思い、見てみましたら、
喪服の紋は中陰紋?
着物は日向紋?

一体、どれが本当の紋なのか、墓石を確認しなければいけません。
今まで、まったく無頓着で、橘にもいろいろあるなどとはおもってもみなかったくらいですから、お墓参りに参りましても、意識して見たことがありませんでした。
丸に三足橘は確かですが、陰紋ではなくて日向紋かもしれません。

確認するまでお待ち下さいますようお願い致します。
申し訳ございませんでした。

次回お墓参りに行って確認するまで、待ってていただけませんでしょうか?
 

有り難うございます

 投稿者:エコ  投稿日:2005年 9月11日(日)00時05分16秒
返信・引用
  すぐにお返事いただきまして、恐縮しております。

 家紋は変わっても不思議ではないのですねー。有り難うございます。まったく知識がないので、丹羽先生の本でも、読んでみたいと思います。(実は高校時代の先生です。「にわちょろ」と呼んでいました。)

 佐竹氏の家臣だった頃から、数回分家して、我が家に至っておりますので当初の頃と家紋も違ってきているのかも知れませんね。

須田大膳太夫・右衛門佐のことは系図に記載があるだけで、全く確認できておりませんので、もし何かお分かりになった事がありましたら、教えてくださいませ。系図を信じているわけでもなく、検証するのが楽しみの一つなので・・・。

重清から我が家までの流れは、間違いないと思います。

今まで、ほとんど一人ぽっちでやっておりましたので、急に百万人の味方を得たような気持ちです。

また訪問させていただきます。

明日は、孫に会えるので、嬉しいです。

では、おやすみなさい。
 

家紋について

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 9月10日(土)20時48分36秒
返信・引用 編集済
  武家では家紋を替えることはよくあることです。たとえば伊達家で使用している家紋は、ほとんど他家の紋ですよ。伊達家独自の家紋とされるのは雪薄ぐらいです。
家紋は家系を知る上で一助にはなりますが、あまりこだわる必要はないかと。
あと輪ですが、正確にみると糸輪・細輪とかあるようで丸とは区別されているようです。
丸に三足橘の陰紋というのも私の見ている紋帖にはありませんでした。一応守屋氏のところに家紋は梅花・輪の内に橘・丸に三足橘の陰紋と入れて置きたいと思います。
あと書き込みを勘違いしたようですみませんでした。伊達家資料に記載のない二名については、だれか書き込みをしていただければありがたいですが、ただ問題の本筋からいけば、独自で掘り下げていくしかないようにも思います。
エコさんの投稿によって須田大膳大夫・右衛門佐が守屋氏の出であるということを初めて知りました。
私にとっても貴重な情報でしたありがとうございました。また何か分かりましたら気軽に書き込みをして下さい。
 

有り難うございます

 投稿者:エコ  投稿日:2005年 9月10日(土)18時53分44秒
返信・引用
   源次郎さま

 早速お返事下さいまして有り難うございます。今まで一度も投稿というものをしたことがなく、昨日は送れたのかどうかわからず、二度も送ってしまいご迷惑をおかけ致しました。
 まず、家紋について
 源次郎さまがご指摘のように以前は、梅だったようです。


   景茂・・・守屋新藤太景 従五位下加賀守
        関戸頼景(丹後守)次男
        妻は長茂の娘・・・娘婿
        下総州岡田荘越中国新川荘に五万石余領す
        旗紋無紋青地幕紋梅花
と記載されています。

 源次郎さんがご記憶の梅鉢と同じなのでしょうか?
 時代的には長茂が建治3年二月二日卒
 と記載されているので、そのころかと思います。

長茂ー景茂ー政景ー政春  と系図はなっていますが
   政春・・兄二人(朝景&茂祐)が元弘年中、北條平高之?入道宗鑑没落之時属北條
       方討死
       守屋又次郎 新左衛門尉 従六位下 舎兄二人討死之後常州佐竹上総助源       貞義為幕下領五百余町
   幕紋橘自此代用之

と記載されていますので、ここから紋を変えたのでしょかね?そんなことをするのでしょうか?また、なんのために?と・・

現在、私供が使用しておりますのは、丸に三足橘の陰紋です。

系図中記載の輪内橘というのが、丸に橘と同じなのかなと、なんとなく考えておりましたがどうなのでしょうか?
貴サイトに載せていただけるのは、嬉しいです。

 伊達藩士だった守屋家は六、七軒だと思いますので、どなたか見て下さったら有難いです。

須田氏に関しては、教えて下さった資料を探してみたいと思います。

重清から貞治まで、二名以外はすべて、確認できて います。

お彼岸が過ぎましたら、この二名については、お寺さんにうかがってみたいと思います。

本当に、良い情報を有り難うございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

これから、夕飯の支度をしまーす。
 

エコさんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2005年 9月10日(土)15時17分50秒
返信・引用
  かなり調べられているようですね。
エコさんの先祖は守屋采女正重清なのですね。号須田というのは須田大膳家の養子となったということでしょう。『藤葉栄衰記』には須田大膳大夫とありますが、それがエコさんの家系図にある重満に比定できるのではないでしょうか。あと満次ですが右衛門とあるので名乗りは異なりますが須田右衛門佐治次のことと考えられます。宮城県図書館の伊達家に関する資料のなかに伊達政宗が須田右衛門佐に宛てた知行充行状がのっていたと思います。この右衛門佐の子孫は「仙台藩家臣録」に記載があったと思いますが、須田大膳家の家督を継いだと記載しています。
守屋氏について「伊達世臣家譜」と「仙台藩家臣録」に重清から貞治まで二名以外記載がないということだと思うのですが、当サイトの参考文献の最後に記載している通り「伊達世臣家譜」は100石以上の藩士、「仙台藩家臣録」は10石以上の藩士についての記載ですから、それらが編纂された時期に、何らかの理由で禄を減らされていてその基準に満たないで記載されなかった可能性もあるのではないでしょうか。
守屋氏が二階堂氏に仕えた時期ですが、系図の記載なので何とも答え難いのですが、当サイトの二階堂家臣団の四天王の守屋氏のところで記載したとおり、応永十一年(1404)の一揆契約連判状に守屋氏も記載があるので、系図に記載の文明年間(1469〜1487)以前にはすでに岩瀬郡に守屋氏が実在した可能性が高いのではないでしょうか。
あとエコさんは宮城県図書館で資料を調べられたのでしょうか。それ以上調べるとなると宮城県内の同姓の家に手紙などで問い合わせるぐらいしか方法はないでしょうかね。
あと家紋ですが輪の内に橘ということですが、丸の内に橘とは違うのですよね。よろしかったら守屋氏の家紋として当サイトに追加したいのですが問題ないでしょうか。ある軍記物には守屋氏の旗紋は梅鉢と記載があったようにも記憶しておりますが。
 

守屋氏について

 投稿者:エコ  投稿日:2005年 9月 9日(金)21時47分35秒
返信・引用
  初めて投稿致します。いろいろ教えていただけたらと思っております。
 我が家の家系図では、ここで登場する、二階堂四天王の守屋氏の子孫、ということになっています。
 それ程大切とも思わず、数年前に、残っていた古文書類やガラクタのような物を、手狭になったので全て処分してしまいました。ところが、ごく最近になり、御先祖に興味を持ち始めましたが、残っているのは家系図と過去帳のみです。悔やんでも悔やみきれない思いです。
 系図ですが、ほんとかしらと疑いつつも、それをもとにして国会図書館などで伊達家の資料と照らし合わせたり、少しずつ調べています。お墓は仙台ですが、横浜在住なので土地勘もなく歴史もさっぱりで、資料を読んでも良く分からないところがたくさんあります。この作業をきっかけに、教科書ではまなべなかった生きた歴史が学べそうでとても楽しいです。また、私も還暦を過ぎましたので、きちんとした形にして子供に残してやれたらいいなあと思っております。
 さて、我が家の家系図・・・19代略・・貞春、貞信、信盛(ここまで佐竹家家臣)
信広(文明2年2月より伊達成宗に仕える)このあと宗信、信成、景成、貞成と11代迄。

貞信の弟貞業、貞国、貞則(佐竹家を去り相州北條氏へ)
貞則の弟 又次郎秀国(文明14年常州をでて奥州岩瀬郡須賀川城主二階堂刑部少輔藤原尚           行幕下となる。岩瀬郡守屋郷其外五百余貫賜る。守屋、矢部、須           田三宿老。永正七年六月六九歳亡)彦三郎秀高(大永六年四月晦           日亡四七歳亡)
小八郎秀春(天文二七年正月二三日亡)
筑後守秀重、一男筑後守俊重(伊達黄門政宗卿属。本領安堵の旨御しょう文・・・天正十              七年十一月二十三日。幕紋輪内橘)
      二男   重満(号須田須田大膳 )
      三男   満次(号須田須田右衛門 兄重満家督を継ぐ)
      四男   重清(采女正 兄戸俊重と共に政宗卿に属し天正十七年十一月十              日岩瀬郡稲村郷を賜る。慶長十七年八月三日亡。御しょう              文・・・・。 幕紋輪内橘。小旗中黒上下赤長一丈四幅。
俊重一男 重国(無嗣子故名跡断絶)
重清一男 重長(五右衛門。寛文九年七月二十五日七十三歳亡)
      重長一男重春(市之丞。承応二年十一月?日亡三十二歳)
        二男重次(伝右衛門。兄早世の為家督を継ぐ)婿養子新七郎重方が継ぐ
        三男重之(彦六郎。明暦四年八月二日二十八歳亡)
  二男重治(彦三郎市郎右衛門。万治三年三月二十三日五十五歳亡)

重治嫡男 婿養子重のり(市郎左衛門。草野十祐藤原重信の二男。元禄五年十一月十日五            十四歳亡)
重のり嫡男 重定(三郎兵衛。元禄十五年九月二十二日 四十四歳亡)
重定嫡男 定次(太郎八郎。寛延四年三月二十七日亡)
定次の子(戒名のみ記載。市郎右衛門。文化十年八月十二日 八十二歳亡)
市郎右衛門の子(戒名のみ記載。運之丞。文化十一年七月二十二日 四十九歳亡)
運之丞の子 貞治(文久二年十月二十八日 七十一歳亡)
貞治の養子 本静     以後私まで五代(貞治より戸籍謄本あり)

重清より貞治まで二名を除き、伊達家関係資料で確認できました。
*号須田というのはまだ確認出来ていません。
*秀国が二階堂氏に仕えるようになった時期の確認がまだできていません。
*貞業が次の三家の祖と資料にありますが、確認できません。
      守屋善蔵裕義(明和年中当主。鷹匠組一両1歩五人)・・・富之進
      守屋八郎左衛門高定(広間番士二両二歩四口)
      守屋市郎右衛門定比(次間番士七十一石四斗三升)
以上、もしご存知の方があれば情報いただきたい。また調査方法がわかれば教えていただきたくお願い致します。
 源次郎さま、何かヒントになるようなことがあれば教えて下さい。
 

以上は、新着順201番目から250番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  |  《前のページ |  次のページ》 
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