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ありがとうございます。

 投稿者:Aobh  投稿日:2016年10月23日(日)15時52分21秒
返信・引用
  源次郎さま
ご丁寧な回答ありがとうございます

私も限られた資料を読み始めたばかりですが、ちなみ有我さん編「二階堂氏浜尾家系図」では須賀川二階堂氏及び浜尾氏は行村系なのかなとも読み取れました(ただし為氏公の名は見当たらないのですが)。
繰り返しになってしまいますが、私も少しずつ調べていきたいと思います。今後ともいろいろ参考にさせていただきます。ありがとうございました。
 
 

Aobhさんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2016年10月17日(月)20時58分29秒
返信・引用
  『二階堂氏の所領(暫定版)』の中で書いたとおり、相模国懐島殿原郷(現神奈川県茅ケ崎市)の領地は仁治元年(1240)二階堂基行(行村系)が子息行氏に譲っていることが譲り状により明らかなので、浜尾民部大輔の本貫地とされる「伊豆国懐島の浜の尾」が「相模国懐島(の浜の尾)」の誤りであると仮定すると、浜尾民部大輔も二階堂基行に連なる行村系二階堂氏一族の可能性が高いのではと考えたわけです。また二階堂為氏と浜尾民部大輔は叔父甥の関係あるというので、二階堂為氏の親と浜尾民部大輔は兄弟の関係にあり同じ行村系二階堂氏の可能性が高く、ただ婚姻による兄弟関係であれば二階堂為氏が行光系二階堂氏という可能性も残るわけです。浜尾の名字を名乗ったのは領地に由来している可能性が高いのでしょうが、領地に住んでいたかどうかはわかりませんよ。たぶん二階堂為氏と同じように鎌倉に住んでいたのではないでしょうか?私は二階堂氏浜尾家系図に「鎌倉の浜の尾」という記述があることを知りませんでした。見落としていたのかもしれません。  

ありがとうございます。

 投稿者:Aobh  投稿日:2016年10月16日(日)16時24分15秒
返信・引用
  源次郎 さま
ご回答ありがとうございます。

「鎌倉から下向」というのは、私の表現が不適切でした。→「鎌倉の浜の尾から下向」のつもりでした。私は、ただ単純に、現在は消滅したかもしれませんが、鎌倉に「浜の尾」という地名があって、そこに居住していた、二階堂改め浜尾氏が北沢村或いは相会村に住んだのではと思っただけです。源次郎さんの記載に異議があるわけではありません。
 それで、改めて質問させたいただきたいのですが、「二階堂為氏の叔父浜尾民部大輔の本貫地とされる伊豆国懐島の浜の尾が、相模国懐島の誤りであれば、浜尾民部大輔、その甥二階堂為氏は行村系二階堂氏の可能性が高くなる。」の部分ですが、なぜ「相模国の懐島」だと行村系と推測されるのでしょうか? 勉強不足で申し訳ありません。ご教示いただければと思います。

 突然、ぶしつけな質問ばかりなので、自分のことも少し紹介させていただきます。
 私は須賀川市出身で、現在、北海道に住んでいます。栗谷沢の三千代姫が供養されている所に何度も行ったことがありますし、小学生の時には校庭南側の果樹園の空堀跡を歩いてみたり(今は宅地造成されました)、和田の大仏にも自転車で何度か行きました。そんなことから、源次郎さんの著書も現住地の図書館を通じて取り寄せて、読ませていただいたことがありますし、こちらのサイトは開設された当初からずっと拝見させていただいています。
 二階堂氏関連を含め須賀川市の歴史のことはずっと関心はあったものの、日々の生活にかまけて頭の片隅に追いやっていたのですが、ふとしたことがきっかけで、もう少し調べてみようと思うようになりました。
 今回の質問の趣旨は、別に記載内容に「モノ申す」とかするつもりはなく、源次郎さんのサイトを参考にさせていただきつつ、自分なりに調べる過程で疑問が生じたからです。
 私も限られた資料や記憶、また、帰省した時にはいろいろ見聞きして、考えていきたいと思います。
 よろしくお願いします。
 

Aobhさんへ

 投稿者:源次郎  投稿日:2016年10月10日(月)11時12分52秒
返信・引用
  訪問ありがとうございます。
鎌倉から下向していないとはどこにも書いていないと思いますが・・・
 

濱尾氏

 投稿者:Aobh  投稿日:2016年10月 2日(日)16時18分17秒
返信・引用
  源次郎様
HP開設当初より拝見させていただいています。突然の投稿ご容赦願います。
さて、浜尾氏に関してですが、HP内「二階堂為氏の岩瀬郡下向」の記載で、
「二階堂為氏の叔父浜尾民部大輔の本貫地とされる伊豆国懐島の浜の尾が、相模国懐島の誤りであれば、浜尾民部大輔、その甥二階堂為氏は行村系二階堂氏の可能性が高くなる。」とありますが、確かに須賀川市史巻2 中世編では浜尾氏の本貫地は伊豆国懐島と記載があります。しかし、二階堂氏浜尾家系図をみると「鎌倉浜之尾」と記載があるので、須賀川市史の記載はそれとして、浜尾氏も鎌倉から下向したと考えられるのでは思いましたが・・・
 

変更しました

 投稿者:源次郎  投稿日:2016年 8月27日(土)06時59分40秒
返信・引用
  アドレス変更しておきました。これからも宜しくお願い致します。  

相互リンクURL変更のお願い

 投稿者:KUBO  投稿日:2016年 8月15日(月)16時45分41秒
返信・引用
  >源次郎様

 ご無沙汰しております。「KUBOの家系城郭研究所」の管理人KUBOです。この度
@niftyの@homepageサービス終了に伴いサイトを移転致しました。つきましては
リンクURLの変更をお願い申し上げます。

旧:http://homepage1.nifty.com/t-kubo/
新:http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/

 それでは今後ともどうぞよろしくお願いいたします。失礼致します。
 

姓の考え方

 投稿者:岸本  投稿日:2016年 1月30日(土)18時09分23秒
返信・引用
  こういう意見もあります。
 森岡氏の書いた「名字のヒミツ」の中には、とんでもない間違いがあり、氏の苗字についての基本的な知識を疑ったことがある。

 「現在でも難読の名字の読み方を、平易なものに変えることは法的に可能(逆はできない)。従って、難読名字も減る傾向にある。」(p.129)

 これが大間違いであることについては、下記のページが簡潔なので御参照願いたい。ここでは、下の名前について書かれているが、苗字についても法的な扱いは全く同じである。同様の内容の文章は、GoogleやYahoo!で「戸籍 読み方」で検索すればたくさん出てくる。第一、日本の戸籍に読み方が無いことは、何も専門的な知識ではなく、誰でも自分の戸籍を取り寄せてみれば分かることである。読み方などどこにも書いていないのだから、法的な手続きなど、取りようが無いのである。
http://myoujijiten.web.fc2.com/morioka.html

307 名前: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/11(水) 20:35:19 0
どこが適切な場所かわからないので、燃料投下も兼ねてここで。

種類の多さは世界トップクラス!?“名字大国”日本のルーツとは?
http://r25.jp/b/honshi/a/ranking_review_details/id/1112009030508

>日本と中国文化圏では名前の成り立ちが異なります。日本が“名字”を使用しているのに対し、
>中国文化圏で使われているのは“姓”です。
>日本では名字と姓がごちゃ混ぜになっていますが、本来は別々の意味を有するもの。
>たとえば姓は、その一族の先祖を指し示すもので、古代の中国では皇帝から授けられました。
>自分たちの先祖を敬う中国文化圏では、代々その姓を名乗り続けているため、種類が少ない。

中国で使われてるのが「姓」だとか、古代では皇帝が授けていたとか酷すぎ。
森岡浩って人、これでよく姓氏研究家なんて名乗れるな。
 

答えになるか?

 投稿者:源次郎  投稿日:2015年 5月31日(日)18時46分27秒
返信・引用
  私は「日本名字家系大辞典」を著した森岡浩氏を尊敬しています。  

偽系図

 投稿者:岸本良信  投稿日:2015年 5月27日(水)15時00分2秒
返信・引用
  偽系図に騙されないようにするにはどうしたらいいでしょうか。  

二階堂のはしくれ

 投稿者:クロネコびーちゃん  投稿日:2015年 5月 4日(月)14時33分41秒
返信・引用
  母親の旧姓が二階堂でした。おじさんが現在滋賀に住んでおりますがルーツを知りたがっています。

http://kuronekobchanb4.jimdo.com/

 

Wikiの情報が・・・

 投稿者:福島ブラッド  投稿日:2015年 3月17日(火)23時08分2秒
返信・引用
  源次郎さまはじめまして。
以前から参考にさせていただいております。
私も二階堂の苗字に関係のある者です。

源次郎さまにお伺いする事ではないのかもしれませんが、
実は、ウィキペディアで二階堂氏の祖の行政の息子の行光と、行村を
調べていましたら、この兄弟の生没年が矛盾していまして・・・
兄の行光の生年が1164年、弟の行村の生年は1155年となっています。

お忙しい事とは存じますが、この事で何か御存知の方がいれば、
ご教示をいただきたいと思い勝手ながら掲示板で質問させていただきました。
よろしくお願い申し上げます。

福島ブラッド
 

追記

 投稿者:源次郎  投稿日:2015年 2月20日(金)10時57分19秒
返信・引用
  活字本とは「民間系譜集成」所収の須田氏系図を指すわけですが・・・  

tokosuさんが正しいのでしょう

 投稿者:源次郎  投稿日:2015年 2月19日(木)22時39分14秒
返信・引用
  永秀の没年は元亀三年(1572)が正しいと思いますよ。ただ活字本の須田氏系図には文亀三年(1503)となっているのでそのまま記述しています。「岩瀬郡須田氏の興亡」の史料・系図について基本的には整合性がとれなくても改変することなくそのまま記述しています。宮司家の系図原本は拝見させていただけなく、活字本をみてくださいという返答だったので、確認出来ない以上、整合性がとれなくても改変することなく載せています。活字本の須田氏系図は元号がおかしいのではという箇所が他にもあります。ホームーページの記述は自分の考えも入れ整合性がとれるようにしていると思いますが・・・?
 

須田永秀の没年

 投稿者:TOKOSU  投稿日:2015年 1月25日(日)17時16分49秒
返信・引用
  すみません、「岩瀬郡須田氏の興亡」を読んでたらまた気になるところがありまして。
秀行の父の永秀のことですが、没年が文亀3年(1503年)となってますが、
これでは子の秀行が生まれる22年も前に死没したことになり、
また、天文元年(1532年)の白河氏との合戦にも当然参加できません。
生年が文明17年(1485年)ですから、永秀は弱冠19歳で死没した計算になってしまいます。
文亀3年じゃなくて、元亀3年とかだったら、まだわかるのですが。
 

何の

 投稿者:源次郎  投稿日:2015年 1月23日(金)18時56分46秒
返信・引用
  弱いのは二階堂氏も負けていないと思うよ  

秀行の生年について

 投稿者:TOKOSU  投稿日:2015年 1月20日(火)03時46分59秒
返信・引用
  なるほど、実子ではなく養子とも考えられますね。
私は白河結城氏をメインに調べてますが、他家との合戦をいろいろ調べてると勝ったという戦がほとんどなく負け戦ばかりで、ちょっと憂鬱になってきます(笑)
二階堂氏にも結構やられてるみたいで、戦争は弱かったのでしょうね。
 

URL変更のお知らせ

 投稿者:半覚齋  投稿日:2015年 1月14日(水)05時21分24秒
返信・引用
  リンク頂き有難うございます。
私サイが下記へ移動致しましたのでお知らせをいたします
http://call-you.sakura.ne.jp/

移動に際して、かなりの更新を致しましたので、宜しかったら御覧下さい。

なおこのサイトはヤフーカテゴリーでトップになっています
http://dir.yahoo.co.jp/Regional/Japanese_Regions/Tohoku/Fukushima/Arts/History/?q=History

登録をお勧めいたします。

以後もよろしくお願い申し上げます。

http://call-you.sakura.ne.jp/

 

Re秀行の生年について

 投稿者:源次郎  投稿日:2015年 1月10日(土)08時32分28秒
返信・引用
  TOKOSUさん、お久しぶりです。今単身赴任中で手元に本がないので確認できませんが、時間が出来たら見てみます。執筆してから大分経っているのでその当時の考えがどうだったのか思い出せませんが、ただ執筆中に盛秀は秀行の実の子供だったのだろうかという疑問があったという記憶があります。秀行の嫡男は田村氏との戦いで戦死した源次郎で、その結果秀行は盛秀を他家からの養子としたのではないかという推測です。たしか須田佐渡守頼隆の子孫に盛秀と名乗る人物がいたのではなかったでしょうか。  

秀行の生年について

 投稿者:TOKOSU  投稿日:2015年 1月 7日(水)03時25分38秒
返信・引用
  お久しぶりです。就職はできましたがいまいち仕事がおっつかないTOKOSUです。
「岩瀬郡須田氏の興亡」をチラッと読みましたが、
そこに盛秀の父の秀行の生年が大永5年(1525年)となってましたが、
それだと盛秀は1530年生まれなので、秀行が6歳の時に生まれた計算になってしまいます。
これは秀行か盛秀のどちらかの生年が間違ってると考えていいのでしょうか?
 

ご教示ありがとうございました!

 投稿者:遊佐之助  投稿日:2014年10月20日(月)16時42分18秒
返信・引用
  源次郎さま

常松氏系図につきましてのご教示、誠にありがとうございました。
須賀川市立図書館と福島県立図書館に、それぞれ蔵書がございました。
次の休みに遠出してみようと思います。

これからもサイトの更新を楽しみにしております。
どうもありがとうございました。
 

返信遅くなりました

 投稿者:源次郎  投稿日:2014年10月17日(金)21時49分33秒
返信・引用 編集済
  民間系譜集成(有我一二編著)のP19常松系図、民間諸家系譜(有我一二集録)のP94岩淵村常松系図ですが、須賀川市立図書館とか福島県立図書館に蔵書ありますかね?問い合わせてみて下さい。  

常松氏系図

 投稿者:遊佐之助  投稿日:2014年10月 1日(水)14時32分11秒
返信・引用
  源次郎さま

はじめまして。御ページをとても興味深く拝見しております。

家臣団の「常松家」のご説明に記載のある『常松氏系図』を読んでみたいと思います。

不躾で恐れ入りますが、こちらの系図はどこで見ることができるか
ご教示をいただけませんでしょうか。

どうぞよろしくお願い致します。
 

リンク変更

 投稿者:半覚齋  投稿日:2014年 9月 9日(火)01時22分23秒
返信・引用
  有難うございました
引き続きよろしくお願い致します。

http://call-you.sakura.ne.jp/

 

変更しました

 投稿者:源次郎  投稿日:2014年 9月 3日(水)19時58分2秒
返信・引用 編集済
  半覚齋様リンク先変更しました。ただし旧アドレスのサイトは更新不可能なので、新アドレスhttp://www13.plala.or.jp/hideyuki25/index.htmlのサイトのみです。ご了承ください。  

移転のお知らせ

 投稿者:半覚齋  投稿日:2014年 9月 1日(月)13時28分5秒
返信・引用
  引き続きよろしくお願い致します。

http://call-you.sakura.ne.jp/

 

無料電子書籍のご紹介

 投稿者:小山啓天  投稿日:2014年 7月 9日(水)19時48分33秒
返信・引用
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印字したい場合は、枚数に注意して用紙をセット・印字してください。
 

訪問ありがとうございます

 投稿者:源次郎  投稿日:2014年 4月25日(金)19時37分51秒
返信・引用
  安藤様、訪問ありがとうございます。
今後とも宜しくお願い致します。
源次郎は、車で3時間ほどかかる所に単身赴任中で久しぶりに自宅に帰ってこのコメントを書いています。
 

はじめまして。

 投稿者:安藤  投稿日:2014年 4月23日(水)17時55分15秒
返信・引用
  初めまして、源次郎様。

先祖が江戸時代に開いていた寺子屋(?)に名前があったらそれを拝借したいと思いネットを調べていたらこちらにたどり着きました。

安藤家の末裔の一人です。 生まれも育ちも須賀川ですが、現在は海外に住んでいます。 祖父、父、親戚の者から先祖のことはほんの少し聞いてはいましたが、こんなに詳細を知ることができて、大感激しています。
ありがとうございます。

そもそも、安藤家は須賀川の出ではなく、とある地方の豪族だったのを二階堂のお殿様に拾われた。
二階堂のお殿様に仕え、伊達政宗と戦い、敗れ果てた。

江戸時代は寺子屋を開いていた。
地代で食べていた。

明治になって、須賀川村の村長をしていた。
明治の大火後、土地をみんな店子にあげてしまった。

恥ずかしながら、私の知識は この程度です。

松明あかしは毎年父に連れられ、小松明を持って行っていましたし、時代劇好きの父が、あの「独眼竜政宗」を見ようとはしませんでした。(笑)

家系図がないので、叔父が過去帳から家系図を起こすことを考えていたようなのですが、業者に注文すると多大なる費用がかかるとかで、断念したようなのです。 退職したら、自力でやってみたいと考えていました。

掲示板をまだ全部は拝見していませんが、二階堂氏に関係する子孫の方が、こんなにたさんいるのにも驚いています。 (時間を考えれば当然でしょうか)

寺子屋時の資料(教科書とか・・)はまだ本家に残っていると聞いています。

こちらに出会って、益々、きちんと先祖について調べてみたくなりました。

これから時々拝見させていただきます。
とりあえず、ご挨拶まで。

安藤。
PS.私も理系のため、(最近はリケジョとか言うんですよね) 文才がなく、すみません。
         
 

Re: なぜ刀鍛冶なのか?

 投稿者:二階堂  投稿日:2014年 3月15日(土)22時42分7秒
返信・引用
  > No.477[元記事へ]

源次郎さんへのお返事です。

ありがとうございます!調べてみようと思います
 

なぜ刀鍛冶なのか?

 投稿者:源次郎  投稿日:2014年 3月14日(金)07時12分46秒
返信・引用
  刀鍛冶をしていたということなので、宮城県北部というだけではどこの藩に属していたか不明ですが、お住まいの地域を領地としていた藩または支藩あるいはその地を知行していた家臣の記録を調べてみてはいかがですか。  

刀鍛冶をしていたそうです

 投稿者:二階堂  投稿日:2014年 2月28日(金)01時46分12秒
返信・引用
  二階堂です。宮城に住んでいます。宮城の北部に住んでいます。
二階堂の親戚はほとんどおらず、しかし、大分前から、ここに住んでいたとのことです。(祖祖母が先祖様から聞いた話だそうです)
先祖が刀鍛冶をしていたそうです。なぜ、刀鍛冶なのでしょう?いろいろなサイトで調べるのですが、あまり聞かないので。。

歴史が知りたくてメッセージを書きました。何か知ってましたら、教えていただきたいです
宜しくお願い致します<(_ _)>
 

Re: Re茂木百騎について

 投稿者:イシカワ  投稿日:2013年10月 1日(火)22時32分50秒
返信・引用
  > No.465[元記事へ]

源次郎さんへのお返事です。

 横手が本籍、生まれが秋田市、現在は神奈川に住んでいる茂木百騎の子孫です。石川と申します。茂木百騎は100人以上いますよ。
 私の先祖の場合は一度リストラ(系図によると・・故あって領地を召し上げられ・・・)されたのかもしれませんが、本家「石川」の後をついて、足軽として秋田に来ました。大阪の陣の後、本社採用横手支店勤務として13石の知行をもらいました。
 なかなかできないでしょうが、茂木百騎の子孫で集まって、情報交換できるといいですね!


> 大竹さん訪問ありがとうございます。
> 佐竹家臣系譜(常陸太田市史編纂委員会編)、秋田武鑑に載る文政十年に茂木百騎の子孫として御前出仕を認められた諸士、正徳四年の御国中分限帳の横手諸士分限と十二所諸士分限、私論茂木百騎(大瀬貴正著)の第三章茂木百騎・横手御番人衆のいずれにも大竹氏はありませんでした。
> ただ茂木百騎のうち百騎全部が秋田に移ったようではないので、各種史料に名前が残っていない諸氏がいても不思議ではありませんが・・・
> 因みに須田美濃守盛秀が角館から横手に連れてきたのは59人であったそうで、久保田や十二所に移住した者もいたようです。(横手郷土史)
> あきた名字と家紋(丸山浩一著)では茂木百騎諸家として、赤尾関、石井、石川、泉田、宇野、遠藤、小田部、大瀬、大部、大森、荻津、掛札、片岡、木村、菊池、桐原、国分、小室、介川、椎名、須田、関、妹尾、高垣、竹貫、中田、長沼、長山、滑川、西宮、沼田、野上、本橋、八代、安士、箭田野、山崎、横山、吉沢、吉村の40名字を記す。
> 私論茂木百騎では79の名字を記すが、ただこれを全部認めるとすると百騎を超えてしまう、百騎というからには馬上侍であるという視点が欠けているのかも?
 

サーバを変更致します

 投稿者:源次郎  投稿日:2013年 3月17日(日)14時32分24秒
返信・引用
  只今、ホームページ「戦国大名二階堂氏の興亡史」のサーバをぷららに変更中http://www13.plala.or.jp/hideyuki25/index.htmlでも閲覧可能です。ただ一部画像データがうまくアップできず、部分的に閲覧出来ないものがあります。  

Re驚きました

 投稿者:源次郎  投稿日:2013年 2月 2日(土)15時27分43秒
返信・引用 編集済
  黄金風呂様、訪問ありがとうございます。
参考になることがあれば光栄です。
 

驚きました

 投稿者:黄金風呂  投稿日:2013年 1月27日(日)23時16分46秒
返信・引用
   福島県須賀川市に住んでいる者です。
松明あかしを見るたびに、二階堂家が伊達政宗に滅ぼされた話は聞いていますが、
それ以前の二階堂家の歴史はよく知りませんでした。昨年の松明あかしの時に、
友人にそのことを話したら、みなも同様でした。その結果、小生がそれを調べて、
一年後に(今年の松明あかしまで)まとめて報告することになりました。

 須賀川市史などを読んでまとめようと思っていましたが、ためしにと思って、
インターネットで「二階堂為氏」と打ちましたら、貴ホームページに行き当たり
ました。二階堂家(須賀川だけではないようですが・・・)のことを調べている
奇特な人もいるんだな、と驚きました。

 ホームページを読んで参考にさせていただきます。驚くと同時にうれしくなっ
たので、メールをさせていただきました。
 

岩井氏の件

 投稿者:であるである  投稿日:2013年 1月 3日(木)12時34分38秒
返信・引用
  どうもありがとうございました。「ガセねたじゃないか」と疑い(ソースについて)失礼しました。本当にあったのですね。本日は「稲田村の歴史」というローカルな冊子を親戚の家で目にしたところでした。稲田村大字稲字徳玄57周辺は僕も幾度となく車で走って通り過ぎていますし、親戚もそこら辺に居ります。我が家の2nd hausがその近くにあったのですが、震災の1年前に売っ払ってしまったので中々長期で福島に行く機会が減ってしまったのです。気になることなのでで納得できるまで調べてみようかと思います。であるである。  

岩井氏について

 投稿者:源次郎  投稿日:2013年 1月 1日(火)09時20分41秒
返信・引用
  民間系譜集成(有我一二編著)所収の岩井氏系図(稲田村大字稲字徳玄57 岩井誠治所蔵)を基に作成しているので、あとは自分で頭と足を使ってお調べください。  

岩井氏の件

 投稿者:であるである  投稿日:2012年12月13日(木)16時20分6秒
返信・引用
  はじめまして、失礼致します。色々と暇に任せてご先祖様について調べています。稲の岩井さんは菅原道真の末流って本当ですか?ソースは何処にあるのでしょうか?ウイキペデイアで城山国の岩井城を調べると「信濃泉氏」。菅原という姓は何処にもありません。同じくウィキペディアで菅原氏を調べても岩井の姓はおろか泉の姓もありません。何をもって稲の岩井さんは「菅原の~」とされるのでしょうか疑問です。「菅原氏の~」ひょっとしたら只のガセねたか?と思われます。しかし稲の岩井さんの長老の女性(今年で100歳)も岩井の先祖は、すがわらみちざね、と話していましたが。投稿者の私も稲の岩井さんに関係する男子です。  

Re遠藤の娘です。

 投稿者:源次郎  投稿日:2012年 6月20日(水)19時32分55秒
返信・引用
  若輩者さん訪問ありがとうございます。
私も遠い昔に繋がっていたかも知れない皆様の一人でしょうか。
なかなか面白い思い出話を記述していただきありがとうございました。
どうぞ御家族をこれからも大切にしていってください。
 

遠藤の娘です。

 投稿者:若輩者  投稿日:2012年 6月19日(火)19時25分26秒
返信・引用
  遠い昔に繋がっていたかも知れない皆様、こんにちは。
今は、福島を離れて暮らしている者です。
ご先祖様のことが書かれていて、嬉しくなったのでお邪魔します。

母の旧姓が遠藤で、祖父が前田川で暮らしています。
断片的な記憶なのですが、思い出話をさせてください。
小学生の頃の話です。
ある日、一族が集まって黒い服でお寺に行ったことがありました。
お寺に着くとお坊さんたちが迎えてくださり、何やら部屋に通されて大人たちはしばらく話をしていました。
私は小さかったので、「退屈だなぁ~。みんな、何してるんだろう?」と窓の外を眺めたりしていました。
その後、本堂に移動してお経を聞き、それが終わると住職が石碑のところに案内して下さり皆に話をして下さいました。
しかし、お転婆で勉強よりも体を動かすことが好きだった私は、またしても全く話の内容を聞くことはなく、「退屈だな~。まだかな?」などと思っていました。
解散後、祖父母宅でお茶を飲みながら聞いたのですが、ご先祖様は須賀川城のお殿様に仕えていたこと、お寺に家系図を預かってもらっていることなどを話してくれました。
曾祖母が子供のころには下女がいたこと、叔母が歴史の先生にお姫様と呼ばれていたことなども。
その話を聞いた私は、「今日はご先祖様のために集まったんだ!」と理解し、なんだかちょっと嬉しくなりご先祖様を誇らしく思うようになりました。
母たちが子供のころには、家に鎧や兜まであったらしいです。
しかし、祖母が汚いからと燃やしてしまったそうで。
先人たちの思いが詰まった物なのに、何というもったいないことを。トホホ(;´-`)
祖母は、綺麗好きで執着心がなく、いらない物はすぐに捨ててしまう性格だったのです!
こうして、小さな歴史は少しずつおぼろげなものになっていってしまうようです。

原発事故が起きてから、福島には近寄らなくなってしまいましたが、いつかまた故郷に帰り、ご先祖様にお線香をあげたいと思っています。
幼稚な文で、失礼いたしました。
 

遠江国二階堂氏支流と、須賀川二階堂氏との関連

 投稿者:図書助  投稿日:2012年 5月19日(土)14時24分48秒
返信・引用
  はじめまして、図書助と申します。

二階堂氏について詳しいようなので質問なのですが、

①こちらの二階堂氏の系図http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/fuziwaranan.htmと、武家家伝泉田氏の項http://www2.harimaya.com/sengoku/html/date_izumida.htmlを参照したところ、寛政譜における遠江国石谷氏の先祖、二階堂行秋と年代も近く同一の受領名と法名の行秋を見つけました。

②石谷氏については、二階堂因幡守行秋(法名行欽)→二階堂右馬允行晴(法名宗印。1418年~1484年。西郷民部少輔と二階堂行秋の妹の子で、二階堂行秋の養子となる。)→西鄕太郎大夫行清(法名三休。1446年~1504年9月13日。),二階堂行捷(ゆきかつと読む)→二階堂左馬助清長(法名宗月。1473年~1533年2月9日。二階堂行晴に養育されて、太刀を譲られて二階堂氏を称す。)→石谷十郎右衛門政清 (初めて石谷氏を称す。)

③遠江国二階堂氏支流。伝承によれば、二階堂民部少輔美啓という人物が1257年年3月10日に遠江国佐野郡掛川在西郷村に住み、石谷氏の祖となったとも言われております。また、遠江国佐野郡西郷荘の西郷氏は三河国西郷氏とは出自を別にするという伝承があり、二階堂民部少輔美啓の子孫の可能性があります。

そこで推論なのですが、武家家伝泉田氏の系図による、
二階堂因幡守行秋-二階堂信濃守行春-二階堂遠江守為氏
        -二階堂因幡守行雄-二階堂遠江守行信

上記の流れのうち、二階堂二階堂信濃守行春=二階堂右馬允行晴,二階堂二階堂因幡守行雄=二階堂行捷に対照することはあり得るのでしょうか?また、1439年の永享乱で自害した、二階堂民部少輔と二階堂右馬允行晴の実父である西郷民部少輔(詳細不明)や、乱の後に立ち去った二階堂信濃守と二階堂信濃守行春について関連性はあり得るのでしょうか?

遠江国、駿河国と奥州の諸氏族とはつながりもありますし、二階堂氏-西郷氏-石谷氏と名字がころころ変わる時期が、ちょうど永享乱や遠江国で合戦があった時期に重なっており、加えて遠江国の国人などは永享乱に参戦しているものも多いです。

伝承とはいえ、関連性について二階堂氏まで調べる余裕がないので、ご意見をいただけたら幸いです。
 

Re茂木百騎について

 投稿者:源次郎  投稿日:2011年12月 1日(木)08時52分13秒
返信・引用 編集済
  大竹さん訪問ありがとうございます。
佐竹家臣系譜(常陸太田市史編纂委員会編)、秋田武鑑に載る文政十年に茂木百騎の子孫として御前出仕を認められた諸士、正徳四年の御国中分限帳の横手諸士分限と十二所諸士分限、私論茂木百騎(大瀬貴正著)の第三章茂木百騎・横手御番人衆のいずれにも大竹氏はありませんでした。
ただ茂木百騎のうち百騎全部が秋田に移ったようではないので、各種史料に名前が残っていない諸氏がいても不思議ではありませんが・・・
因みに須田美濃守盛秀が角館から横手に連れてきたのは59人であったそうで、久保田や十二所に移住した者もいたようです。(横手郷土史)
あきた名字と家紋(丸山浩一著)では茂木百騎諸家として、赤尾関、石井、石川、泉田、宇野、遠藤、小田部、大瀬、大部、大森、荻津、掛札、片岡、木村、菊池、桐原、国分、小室、介川、椎名、須田、関、妹尾、高垣、竹貫、中田、長沼、長山、滑川、西宮、沼田、野上、本橋、八代、安士、箭田野、山崎、横山、吉沢、吉村の40名字を記す。
私論茂木百騎では79の名字を記すが、ただこれを全部認めるとすると百騎を超えてしまう、百騎というからには馬上侍であるという視点が欠けているのかも?
 

茂木百騎について。

 投稿者:大竹メール  投稿日:2011年11月28日(月)20時40分55秒
返信・引用
  はじめまして。白河市の大竹です、住所は旧大信村下新城です。農家ながらにも出来るだけ家系を作りたいと思いました。中新城の明眼院に過去帳により元禄まで分かり墓と名前とも合いました。それと、中新城の小針家文書に,慶安四年御検地帳が有り先祖さんの名前を見つけました。大信村史の中で白河関物譚よりとして,白河氏の佐藤大隈守の家臣、柳沼六郎兵衛尉、大竹権之丞など他に、有りました。明眼院は天文十一年に須田近江定綱開基されたと言います。天文年間には白河氏と二階堂氏では戦が有りその後は二階堂氏に側に付いた言います。茂木百騎の中に大竹姓の人は居たと言われましたので調べています。よろしくお願いいたします。  

bushidoさんへ

 投稿者:白石宗義メール  投稿日:2011年11月22日(火)17時40分15秒
返信・引用
  源次郎さんへ、この場をお借りしてbushidoさんとお話すること、お許しください。
bushidoさんへ、見ていただきありがとうございました。私もルーツについて10年以上前から調査し、来年には還暦を迎えるにあたり、集大成しようとがんばっています。さいわいにも、わが家には江戸時代初期に書かれたと思われる古文書、系図等が残されており、ルーツをを探るレールは敷いてありましたから、歴史の信憑性を調査するという作業が主でした。しかし、江戸時代以前の歴史については、なかなか史料が乏しく、真意に迫ることは難しいです。わが家は佐竹支族がらの分流で、家紋も「五本骨の日の丸扇」です。先祖は白石志摩守宗義という南北朝時代の武将です。この人物の先祖は佐竹氏四代秀義からの分流で、代々岩瀬与一太郎の故地に住んでいたということが分かり、この岩瀬氏について探求している次第です。今後、情報交換等、お付き合いいただければ幸いです。
 

有難うございます

 投稿者:bushido  投稿日:2011年11月10日(木)22時47分40秒
返信・引用
  白石様
先日は貴重な情報を提供して頂き、感謝申し上げます。
鎌倉の岩瀬については全く知らなかったため、とても勉強になりました。
まだまだ知らないことだらけなので、ルーツについては地道に探していきたいと思います。
ご対応頂きまして本当に有難うございました。
 

フォローありがとうございます

 投稿者:源次郎  投稿日:2011年10月27日(木)19時20分38秒
返信・引用 編集済
  白石様、ご無沙汰しております。
源頼朝と岩瀬余一太郎の話は私も知っておりましたが、鎌倉市岩瀬の由来については知りませんでした。
御教授ありがとうございました。

話は変わりますが、須賀川市の松明あかしに使う萱が石川県の輪島から送り出されたというニュースを聞いて、もうそのような季節になったのかとあらためて感じております。

http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/

 

源次郎さん、お久しぶりです。

 投稿者:白石宗義メール  投稿日:2011年10月27日(木)17時50分18秒
返信・引用
  久しぶりに、源次郎さんの掲示板を拝見しましたら、興味ある投稿があったので、投稿しました。よろしくお願いします。東京在住の岩瀬さんのことですが、私が知っている岩瀬氏について、ちょっと書き込みさせていただきます。源頼朝が常陸の佐竹氏を攻めたとき、佐竹氏の家臣、岩瀬与一太郎という人物が、捕虜になり、頼朝の前に召しだされた。その時、岩瀬氏は、頼朝の前で堂々とした態度で意見した。「平氏追討という目標がありながら、同じ源氏同士で争うのは誤りである」と頼朝に言上した。この場面は「東鑑」のなかに書かれてある。その後、岩瀬氏は佐竹氏と共に鎌倉御家人となり、鎌倉にも屋敷を持った。現在、鎌倉に岩瀬という地名があり、その由来は、この岩瀬氏であるという。つい、何年か前に鎌倉の岩瀬地区の人たちが常陸の岩瀬地区(与一太郎の故地)を訪れ、交流を持った。これが、私の知っている岩瀬氏です。この岩瀬氏の出目は藤原秀郷流とも書かれてあります。  

ご対応有難うございます

 投稿者:bushido  投稿日:2011年10月 6日(木)23時43分17秒
返信・引用
  源次郎さんご対応有難うございます。
太田亮編の「姓氏家系大辞典」にあたってみます。
お手数お掛けしてすみませんでした。
 

訪問ありがとうございます

 投稿者:源次郎  投稿日:2011年10月 6日(木)20時26分15秒
返信・引用
  bushido様訪問ありがとうございます。
残念ながらbushido様の質問に対する回答は私には出来かねます。
太田亮編の「姓氏家系大辞典」にあたってみてはどうですか。

http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/

 

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